« 人生が期待する私 | トップページ | 新自由主義狂想曲 »

生きるという事

フランクルつながりという事で、「夜と霧」に続き、「それでも人生にイエスと言う」を読んでいる。まだ3分の1というところだが、感じた部分を記述しておきたい。

読み始めての最初の感想であるが・・この本は非常に難しい本だ。何気なく読んで理解できるようなものではない。それは言葉が難しいという意味ではない。

フランクルがいとも容易く述べるすらすらとした表現の数々は、ガムを噛むように読み直し、想像世界にそれらを投影してみなければわからないものであるのだ。それほどに深い意味を内在している。宗教家の言ではないところに、私としてはその表現の思考の奥深さを感じている。一人の人間の生への達観した姿であり、貴重な思想の数々が盛り込まれている。

それでも人生にイエスと言う Book それでも人生にイエスと言う

著者:V.E. フランクル
販売元:春秋社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

読んだ部分のメモを例のようにリンクしておく。

我々が生きる上で直面しなければならない大きな課題の一つが、生きる意義であろう。それをフランクルは滔々説くのである。私自身が20歳の頃よく公言していた生き方というのが「人生は笑うためにある」といったものであった。笑うという事が人間にとっての至福であると考えていた私は、その笑が生まれるような生き方をしたいと思っていた。努力一つがあるならば、その理由は笑いに従属するのであろうと。ところがフランクルはこう一蹴する。

人間は楽しみのために生きているのではない。

しあわせは目標ではなく、結果にすぎない。

簡単には飲み込めない言葉である。ただ、一つ一つを丁寧に飲み込んでいくと、意図が見えてくる。フランクルは、「楽しみのために生きるのは割があわない」と言う。そもそも人生には楽しみよりも多くの苦痛が待ち受けている。それの差し引きをした時に、マイナスになるようでは人生に価値が与えられなくなってしまう。

また、幸せを追い求める事が、結果的な幸せに繋がるかどうかは誰にもわからない。高学歴を得て、寝る間も惜しんで仕事をし、その結果、大金を稼ぎだすというような、誰もが羨ましがるようなストーリーが果たして幸せかどうかはわからないのである。結局、幸せはその人が判断する、即ちその人の心が決める事なのであろうから。

ならば、苦痛を人生の糧にして、心のあり方を高貴にすることの方が、よっぽど幸せへの近道ではないだろうかという事か。

最後にフランクルは生きる意味と価値についてこうまとめる。

生きるとは、問われている事、答えること。

自分自身の人生に責任を持つことである。

確かに近い理解を私自身も持っている。人生というのは、「私」という名のタイトルを持つ、舞台であると。少々精神的な言い回しをしてしまえば、我々の魂は、「私」という体を借りて、この世に限りある時間だけの“生”を与えられているのではないか。

だから、我々はその舞台において、有限な行為を自分の責任の下になすのである。勿論、日常をそう思い過ごすのは難しい。ではあるが、ふと生を達観して見ようとした時、私は不思議とそういう気分に浸ることがある。

自分が、人生という舞台上で与えられる役割、期待されている価値観に非常な興味を抱く。人に与えられているのは、生という舞台だけであり、脚本などは存在しない。だのに、その存在もしない脚本家に対し我々は何かを期待しようとして生きようとする。

この意味で私はあまり好きでない言葉がある。「努力は報われる」という言葉である。私の知人がよくその言葉を使う。そして、私が努力をしている事を知ると、昔から口癖のように言うのが、「君は報われなければならない」のだよと。だから、そんなにいつまでも人生に向かっていくな、と諭すわけである。

だが、これは私の考え方に一致しない。世の中には努力しても報われない事が星の数ほど存在するからだ。人生に期待するという事は大きな勇気を自分に与える事かもしれない。しかし、努力が報われるかどうかを信じるという事は、病魔に冒された体にモルヒネ注射を自分に打つかのように、本質的でない文句でもあるのだ。

これは、実際に私自身の努力の経験でもあるが、努力をしたところで、何一つ報われなかったという事がたくさんある。

自分以外の誰もが私という人間の存在を知らぬ環境において、自分の努力の形をこの世の誰一人もが認知してくれない時、その努力が私自身の精神的世界でのみにおいて活躍を続けているような時、もし、私がその謡い文句を信じていたならば、それを裏切られるたびに私は失望し、その後の労苦に立ち向かう事はできなかったろうと思う。

努力が甘美的でありえるのは、未来に対する余裕なのである。後ろが崖であったり、背水の陣を敷いた劉邦配下の韓信のような限界状況において、更なる努力に、自分の未来を委ねる事など出来やしないわけである。どちらかと言えば、努力を今しないでどうするのさ?という問いかけの方が私の心には親しい。

モルヒネ注射は永遠に有効的なものではなく、その場限りの“しのぎ”の甘い言葉でしかない。そして、世の中というカオス的真理に対し、努力の美的性格でのみ立ち振る舞おうとしても、人が持っている本質がもやしのようであれば、何も役に立たないのであろう。

というのも、こうした生の意義を深く悩み、命を絶つ人がわが国には年間3万人もいる。そしてその予備軍が、100万人近くにのぼると言われる社会が我々の目の前に存在する。生の形、努力の形、幸せの形は、十人十色である。その自分の形を築けるのかどうかは、今や社会の命題でもあるのだ。その点において、このフランクルの言葉の数々は、生への叡智に繋がるのではないかと私は思うのである。

確かに、フランクルの学術的表現は、凡人にとって痛みだけの人生の真理であるかもしれない。だが、彼はその現実の痛さを直視することが、人間がかかってしまう病魔を取り除く真のアプローチだと言いたいはずだ。人間という奇跡の生命体が、その奇跡の輝きを発揮するためにも、我々が人生からの問いに答えていく行為はとても大きな意味を放つのだ。

最後に本文とはずれるのであるが、強者がいて弱者がいるという事を私は伝えたい。

自然というのは、人間にも不完全という数々のパラメーターを与えるものである。その中で、相対的強者が生まれるのは、相対的弱者の存在によって裏付けられる。金持ちは貧乏人によって裏付けられる。であるからして、競争によって個々の能力を煽り、その結果だとして与えるられるものを、人のキャラクタりティーとして極端に差別する昨今の世の中は、個人の生への意義や問いかけを社会自体が弱体化を手助けしているように感じる。

人生が期待する私でも述べたような、弱者の弱者性に幸福感を見出すような生のあり方を、私は多くの人に拭って欲しいと願う。目立たないところに存在している弱者に、どうか温かい声と温かい目を届けて欲しいと思う。難しい顔をしている人には笑顔を届け、悲しい顔をしている人には、一欠けらの優しさを。

日々を苦しんで過ごす意義への格闘家に対し、それは、自然なる他者から与えられるその人の新たな意義を創造する事となるであるから。まだこのブログにはエントリにはない内容ではあるが、国家が税制をもって、政治政策をもって、法律をもって、弱者を締め付けるような事があれば、どうかそれに抗していただきたいと思う。それが、結果的には自分の人生に生の価値を与えるのだろうし、今の社会システムが健全復帰する原動力への貢献になるはずであるからだ。そして、私はそれを願い、小さくとも、自分の人生の舞台へと描いて生きたいと考える。

|

« 人生が期待する私 | トップページ | 新自由主義狂想曲 »

コメント

>努力が甘美的でありえるのは、未来に対する余裕なのである。

鋭い!

投稿: さこやん | 2006年12月21日 (木) 20時06分

ありがとうございますっ!

投稿: cteq6l | 2006年12月22日 (金) 18時29分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/20479/437254

この記事へのトラックバック一覧です: 生きるという事:

« 人生が期待する私 | トップページ | 新自由主義狂想曲 »