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人生が期待する私

幼少の頃に読んだきりであった本を読み返す。成人し、その強烈な叡智に --“われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われたものとして体験される”--、一節からだけだがめぐり合う機会があり、それを自分自身にすらも刻んで生きていこうと気づいた時があった。時間があるうちにと、もう一度「夜と霧」という、心の巨人とも言ってもよいフランクル著の本を手にとり読んでみる事にした。

夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録 Book 夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録

著者:霜山 徳爾,V.E.フランクル
販売元:みすず書房
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いくつか個人的にメモ をしているのでフランクルの記述を紹介する。

強制収容所という特殊環境下での心理学者の学問的見地というのは、もちろん貴重であるのはさることながら、こうした述懐を本人の極限的状況下で冷静に分析しているという学者精神に、研究者という自分の立場からしても敬意を覚える。


人間という社会動物は、周りへの環境適応能力に凄まじいものを発揮すると常々私は考えている。現在の状況で云えば、日本と中国の人々の生活水準は違うし、アフリカの人々とも違うわけで、また、世界各地で起きている民族紛争下に息をこらして生きている人々のそれとも違うのだが、そのレベルに合わせた幸と不幸が存在しているという事なのである。

クリスマスになり、周りを見渡した時に自分が一人である事に怯え、テレビを見ながらお菓子を貪っては街に溢れるカップルを羨ましがるような人がいれば、一方の世界で、一片のパン切れを手にして喜び満ち溢れ、神に感謝する人もいるのである。だから前者は情けないという話ではなく、その社会の中でしか自分たちの持っている幸せに、残念ながら人間である限り気づく事ができない。もう少し云うと、幸せや人の感情に学術的な普遍性はないのである。

この夜と霧の本にも近い件がある。あれだけ強制収容所の圧迫を受け、生を諦めなかった人々が、開放され生まれ故郷に戻った時に、とある絶望の淵に陥るのである。結局人間は物質的豊かさに心をよりどころとする事はできないのである。最愛の人がいれば、その を思い浮かべるだけで、人にとっての浄福が訪れるのである。そしてそれに気づける事に幸せを感じうる事ができるし、生への諦めに抗する事ができる。この物質的豊富な現代の日本人が年間3万人を超える自殺者を出している事実と比べると、いかに精神的な豊かさが大切かという事を知るはずだ。

このプログのサブタイトルを無知の幸せとしたのだが、これにも似たような想いを持っている。例えばこんなことである。もし、タイムマシーンがこの世に存在し、自分の未来を覗く事ができるとしたらそれは幸せなことであろうか?勿論、物理学者の端くれとして、このタイムマシーンには知的興味と夢を抱くのであるが、これが人の心を豊かにするのであろうか?と考えれば、これはおそらく否である。

もし、未来を覗いた時に、素敵な将来が待ち受けていたとしたらどうだろう?この場合、どんな事をしていても素敵な将来を得られるわけで、苦い努力を惜しむ事に疎くなるであろう。

もし、未来を覗いて平凡な将来や、醜い将来を見てしまったらどうであろう?この場合、あらゆる労力に無駄を感じてしまうであろう。どんな人生設計もが無駄になるのではないか。

われわれには知らないからこその幸せがある。知らないからこその希望があるのである。他人の気持ちが手に取るようにわかってしまったら…、それは既にプログラムされたロボットのようでしかない。

人間誰しもが醜い部分を昇華できないわけであり、それを補うための演技もなすすべなく、人を傷つけあってしまうであろう。相手の悲しみが自分の痛みのようにわかってしまったならば、その度に心労を受け、その度に時間を浪費し、疲れ果てなければならない。社会の裏側を知ったらどうだろうか?それは幸せであろうか?違うのである。われわれは知る事ができないからこその幸せというか、生があるのであり、その幸せに気づくためにも今日の知的欲求があるのであり、知ることを止めずに、果敢にそれに挑戦するのであろうと思う。そして知ることからの痛みが、人に高貴な涙を流させるのである。

現代にはたくさんの精神的、肉体的障害者がいる。そういう人達を知る事というのは、健全者から見れば無駄な労力のように映る。また、それをネガティブと捉える傾向がある。自分が容量豊かでなければ、その人達の不幸や労力を受け止めるだけの自分がないのである。

誰しも自分が恵まれていると考えるよりは、自分が不幸だと思う方が、どちらかと言えば弱い自分には優しいものである。であれば、不幸だと感じている自分よりもさらにさらに弱い人々に対して、受け止めるような愛情を発揮したり、その不幸に涙することなんていうのは容易くないのである。また不幸な人をあざ笑うことで、自分を救おうとしたりもする。人の不幸は蜜の味などと評するが、これは残念ながら人の持つ本質の一つにも違いない。

そんなある見方をした時に、この世の中には一種類の人間しかいなくなる。物質的にどれだけ素晴らしいものを人が持っていようが、実は…と物足りなさを感じていることを暴露したりするのである。誰もが羨むキャリアウーマンという人が、どれだけお金を稼ぎ素敵な暮らしをしたところで、負け犬と呼ばれる事に鋭敏になり、温かな家族を持てない事にコンプレックスを抱くのは普通の感情である。そして普通の人は、普通である事にため息をつき、恵まれないと感じている人は、恵まれないとぼやくのである。つまり社会動物となった人間は、常に精神的弱者の側面を、自分の知る周りの環境に逐一反応しながら、持つものなのである。

そう生きていると、このフランクルの云うところの“人生からの期待”には気づけないであろう。「良い事ないかな~」とか「幸せがおっこっていないかな~」と考えるのは、人生に対する期待を自分がしていることになる。しかしそれでは生きる意味や目的を、肝心なところで失ってしまうのである。順風満帆に生きていればそう想う必要性も感じられないのだろうが、どこか大人の入り口のようなところで人間は“生の意味”を自分の内側に問いかけようとするはずである。また与え続けられているだけの人生であったり、学生のような自己生産を頭から拒否しているような身分であれば、自分が頭からこのような事象に突っ込んでいかない限り、そもそも知る由もなかったりする。稀に、半社会人がこのような迷宮に彷徨いだすと、ニートなどと呼ばれる代物が生まれるのである。

その時に、自分がどう素直に生きるかというよりも、自分が何を期待されているかに気づけるかがフランクルの云うところの鍵である。よく言う、「自分らしく生きる」という台詞を自分の内側から眺めるのか、社会や最愛の人達から眺める事を意識するかの違いは、非常に大きいものなのであろう。高校時代の校訓である「人のための人であれ」というグスタフフォス先生の言葉は、この心意に極めて近い気がする。受動的な生を見つめるところに、真なる能動的な生があるのではないだろうか。つまり生の真意はどうにも不確実なものであり、見渡す限りの野原に一輪の花を見つけるようなものなのだ。その花は太陽のご加護、天の雨の恵みなくして美しくは育たないのである。

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コメント

知恵の悲しみ

そんな言葉もあります

投稿: そういち | 2006年1月15日 (日) 13時35分

そんな悲しみは飲み込んでしまいたいものです。

投稿: cteq6l | 2006年1月16日 (月) 10時15分

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