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優しさの訓練

「優しさは訓練できる」とは司馬遼太郎の言葉です。私もそのように思っております。

「優しくない」自分というものに数多く遭遇し、そのたびに深く意気消沈するのですが、でもそれは訓練できるんだと思っています。死ぬ一秒前まで・・その訓練と努力は続けたいと思います。

ですが・・それは目に見えるものでもないし、人に見えるものでもありません。たとえ見えたとしても、自分サイドと他人サイドで見え方も違いましょう。ですから、誤解を含めて時に人は疲れてしまう事もあります。

私の得意分野は数字と統計学でしたから、そんな時、そういうものに数字が付けられたらいいのに・・などと走ってしまったりするわけです。

思えば・・人間の歴史というものは数字をつけていく事の歴史でもあったのです。指標化というのでしょうか。

何かの価値?というものを数値化することで、よくわかるわけです。

物を交換したり、物を平等にしたり・・そんな中で四則計算が生まれ、見えなかった概念、つまり平等だとか均等だとかが生まれたわけです。

人が商売をするようになり・・物の価値というのが需要と供給で決まるという事を発見し、市場が生まれ、貨幣の価値、物の価値が生まれたわけです。

最近では、自分の持っている様々な価値をも数値化しています。その方が分かり易いからです。

私はそんな合理的なものが大好きであるのですが、やはり優しさまでもを数値化したいとは思わないのです。見えなくて良いものというのがあるのだと思いますから。

数値化してしまえば、誰もが合理的な判断を取らざるを得なくなるわけです・・・

先日も広島高裁にて不思議な鑑定結果のでた光市母子殺害事件の話について少ししたいと思います。このくらいの事件は当然に、2009年度から始まる裁判員制度の対象になります。

事件は8年前にさかのぼります。

1999年(平成11年)4月14日午後2時すぎ、山口県光市の新日本製鉄の社宅アパートで会社員の本村洋(当時23歳)宅に、排水検査を装った 同じ社宅アパートに住む男性会社員(当時18歳)が婦女暴行目的で本村の妻の弥生(23歳)を襲い、抵抗されたため首を手で絞めて殺害してから凌辱した。 さらに、長女の夕夏ちゃん(11ヶ月)が母親の遺体の近くで泣き叫んだため、夕夏ちゃんを床に叩きつけた上で、もってきたヒモで首を絞めて殺害し、2人の 遺体を押し入れに隠してから財布を盗んでゲームセンターへ行った。加害者の少年はこの日、水道工事会社を無断欠勤して犯行に及んでいる。

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/yamaguti.htm

この事件で、検察は断固死刑求刑するのですが、地裁の判決は無期懲役でした。被害者の夫である本村さんが「司法に絶望した。早く被告を社会に出してほしい。私がこの手で殺す」と話したのは有名であります。

その後の控訴審もやはり無期懲役でした。本村さんの主張はなお強く、事件は世間の脚光浴びる中最高裁へと舞台を移します。

ただ・・この事件を客観的に捉えるならば、死刑になる事件ではないのです。

これは有名な永山基準というものです。

(1)犯罪の性質(2)犯行の動機(3)犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性(4)結果の重大性、特に殺害された被害者の数(5)遺族の被害感情(6)社会的影響(7)犯人の年齢(8)前科(9)犯行後の情状

控訴審ではこの基準への当てはめを行っているわけですが、(2)(4)(7)(8)あたりを満たしていないというようなものでした。

具体的には、犯人の殺人の動機が乏しい事・・永山基準でいう被害者4人に対して2人である事・・犯人が18歳30日である事・・前科がない事であります。

※犯人は少年法の適用を受けるわけですが、18歳以上は刑法で死刑を求刑できることになっています。

この控訴審の事実認定が、最高裁判決で覆りました。判決の破棄、差し戻しであります。

特に、被害者感情、事件の社会的影響、さらに被告の態度が大きく影響したと思われます。

特に大きかったのは獄中にあった被告の友人への手紙の内容でしょうか。

「ま、しゃーないですわ今更。被害者さんのことですやろ?知ってま。ありゃーちょうしづいてるとボクもね、思うとりました。・・・(註: 「中略」の意味?)でも、記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんのなら好きにしてやりたいし」

「知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」

「犬がある日かわいい犬と出会った。・・・(註: 「中略」の意味?)そのまま"やっちゃった"・・・これは罪でしょうか」

「5年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時ば(註: 藤井が「は」を打ち間違えたものと思われる)完全究極体で出たい。じゃないと2度目のぎせい者がでるかも」

(by 光市母子殺害事件@wikipedia)

この手紙は、被害者を中傷するばかりではなく、被告本人が自分が「死刑に」ならない事を強く知っていたという事を証明します。

永山基準に当てはめれば、判例変更がない限りにおいて彼は死刑にはならないのです。

ですがこれでは正義がどこにあるのかわからないという事であり、最高裁第二小法廷は判例変更に踏み切ったのでしょう。

問題は、この事件がなぜ大法廷で行われなかったのだろう?という事であります。

通常、判例変更は大法廷(最高裁判官15人全員で開かれる)で行われるものです。

また、この裁判では、何故最高裁は破棄自判をしなかったか?とマスコミ等が散々に騒ぎました。破棄自判というのは、原審の判決を棄却し、最高裁自らが量刑を決する判決を書く事です。

最高裁という場所は、事件の事実をとやかくやるところではないのです。ですから、地裁・高裁で行われる証拠調べは基本的にありません。今まで審理されてきた事実から、その判断が正しかったのかどうかを見るところであるからです。

事件から8年が経過し、事実認定が難しくなり、被害者家族の心労を慮るならば、もう一度事実認定を洗いなおす高等裁判所での審理は酷というものです。

もし、新たな真実を被告弁護サイドが持ち出せば、再び無期懲役判決が出るやもしれません。

ですが・・最高裁は死刑判決の破棄自判(被告に不利になる自判)は出せないのです。

※量刑を減らすような自判はまれにあります。

何故ならば、他に出されていない真実がどこかにあるかもしれないからです。

最高裁が逆転判決で死刑を出してしまえば、合法的な死を国家の行政府が行うものであるからです。

特に今回のような判例変更に係る事案では、もっと高裁で審理を最後の最後までやってからではないと死刑判決を出せないわけです。

たとえ、高裁⇒最高裁⇒高裁⇒最高裁・・を繰り返す事になろうとも。それだけ、国家が人一人の命を奪うという事には深い意味があるわけです。

一方の弁護サイドは死刑廃止論者たちであります。報道にもあるように、加害者の人権と自分たちの信念は守るが、被害者の人権というものを凌辱しております。

ですが、これが社会のシステムというものです。これに対し、これから個人がどういうアプローチをすべきなのか?

見えないものを如何にして如何なる手段で判断すべきなのか・・問われている気がします。

聞いているだけで腹の立つ言い分でありますし、裁判戦略であります。でも、それを無視するわけにもいかないわけです。


優しさは訓練できます。すなわち、心は訓練できます。ただ、それを怠っていると、心はどんどんと硬直化するものです。

人の痛みを感じることのできない心となります。一人で生きていけるならばそれも良いでしょうが・・

優しさの訓練は、人のための訓練かもしれませんが、第一には自分のための訓練であり努力であるのです。

我々は合理的な判断・・とは言わないまでも、大事な判断をしていくための心を養っていかないと、複雑に入り組んだこれからの社会に対応することは難しいのかなと、そう思うわけです。

そして数値化・・目に見える事に意義を強く与える昨今の世の中です。どうにかそれに惑わされない心を創りたいものだと考えるわけです。

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