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刑事裁判

最近思うこに・・誰の心にも悪魔は潜んでいるのだろうなぁという事があります。人の心の闇というのは気がつけばふと湧き出してくるようなものなのではないかと・・。

なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか Book なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか

著者:今枝 仁
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光市母子殺害事件で弁護団を解任されることとなった今枝仁弁護士による、本事件の闘争手記であります。

賛否両論あるかとも思いますが、私としては、非常に深い共感を抱きました。

裁判の結果(即ち、差戻し審の死刑判決)というもの自体は、尊重すべき結果だと思うのです。ただ、今回の事件というのは一つの刑事事件の枠組みを超えた意義というものがあったと思うわけですし、その意味において今枝弁護士の感ずる部分に共鳴する思いであります。

しばし本書を引用させていただきます。

ただ、正直に告白するが、「自分の娘が同じ被害に遭ったらどう思うだろうか」という想像は、幾度となく僕を襲い、苦しめ、深く悩ませた。眠りは妨げられ、不意に嗚咽したり、ときには吐いた。実際、社会的な反感と憎悪を向けられる状況では、僕の家族を同じような目に遭わせてやろうという輩が出てきても不思議ではない。僕にとっては、架空の想定ではなく、現実にいつ起きてもおかしくない、今そこにある危険なのだ。

実際に自分の家族が同じような被害に遭ったら、僕はその犯人を憎しみ、死刑を要求し、犯人が死刑に処されるためのありとあらゆる行動を取り、もはや刑事事件の弁護活動など精神的にできなくなるだろう。当事者となっていないのに、想像するには限界があるのだが。

「被害者や遺族の気持ちを考えたら、そんな凶悪犯の弁護などできないはずだ」という意見があるが、それは違う。おそらくは、そういう人たちの気持ちを推し量り、共感を持とうとする心ある弁護士こそが、弁護士稼業としては何の利益にもならない凶悪事件の弁護を引き受けていくのである。

感受性が乏しく、人間味に欠けたような弁護士は、何の得にもならない凶悪事件を避けるだろう。凶悪事件の弁護人というのは、大体において、想像力に欠けた無神経な人物ではなく、感受性が強く優しい人間が務めているものだろうと僕は信じている。そしてそういう人間こそ、凶悪事件であっても、被害者被告人のためにも誠実な弁護活動をよくなし得るのだ。

(中略)

今もこの原稿を書きながら、涙が止まらない。僕もこの事件に携わったことで苦しい日々を送り、傷ついたし、人の負った傷を感じて自分なりに痛みを味わってきた。願わくば、理解しあうことまでではできないにしても、遺族と弁護人として話し合い、互いの傷をわずかでも分かち合う機会を持ちたかった。被告人に向ける怒りをその擁護者である弁護人の僕に直にぶつけてもらいたかった、と残念に思う。

事件の報道等を見ていて、これで良いのか・・?と思う事がありました。どうして、あんなにも必死に戦っている弁護人を、よってたかって何も知らぬ無知者が公開リンチを加えているのだろうかと。

「法の不治」という言葉があります。

刑法では・・法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない・・としています。

つまるところ、法律を知らなかったから許されるというのでは、誰も法律を守ろうともせず、秩序は守られないだろうということであります。法律を知っていて、それを遵守する人が、馬鹿を見る世の中であってはいけないと・・・。

理屈でわかるものの、あまり好きになれぬロジックでもあります。しかしながら、社会の厳しさというのはそういうものでありましょうし、それが自分たちが守るべき社会であります。

この考えに照らし合わせてみても、弁護人たちが、自分たちの命の灯を賭して、闘っている一方で、何も知らぬ、知ろうとしない、何も守るもののない、そして何も努力もしない、ただの自己正義による快感を満たそうとするだけのマスコミや世論が、数の暴力を利用して弁護人たちに誹謗浴びせる様は、見るに堪えぬものであります。

刑事弁護の意義そのものを一生懸命死守しようとするものを、誰が安易にも傷つける権利があろうかと思うわけです。

こうして旧控訴審までは、事実関係について検察官の主張に対する弁護側の弾劾が十分に機能せず、本来なされるべき証拠の吟味も十分にされず、F君としては、「自分のやったことや考えと違う事実を対象に自分は裁かれている」という不満とやるせなさを抱えながら、そんな状況でもなお、反省を迫られていた。そして、その反省態度が、「不十分である」とされて、特に斟酌すべき事情でもない限り、死刑にすべきというところまで追い詰められてしまったのだ。

F君の立場からすれば、「一体、誰を、何を信じたらいいのか」という混乱が生じても、やむを得ない状況だろう。家族からも見放され、死刑を求刑された被告人。それも犯行時「18歳と30日」という年齢の少年だったにもかかわらず、F君には、1審から通じて、今まで誰1人、情状証人が証言台に立っていない。親も友人もいるはずなのに最高裁まで情状証人がただの1人も立たず死刑判決の危険に晒されている被告人がほかにいようか。

F君の反省がいまだ不十分に映るのは、むしろ、幼いころから現在に至るまで彼のおかれていた状況からすれば当然かもしれず、また、その責めをすべて彼1人に負わせるのはあまりにも過酷だ。未成熟な心を抱え、重大犯罪を起こしてしまった少年が、きちんと反省できるような環境が作られていなかったのだ。

しかし、僕自身、体験してきたことだが、たとえ人より遅れても、人生において「遅すぎる」ということは、死に直面するまでおそらくはない。何ら罪のない2人の生命を奪う重大犯罪を起こし、その贖罪と反省が求められているF君においても、事ここに至って初めて自分自身を吟味し、犯した大きな罪の意味を理解し、正しく反省するための人生をようやく歩み始めたとしても、まだ遅くはないと思う。F君は、まだ、反省を深めて、更生することができる。その機会を不当にも奪ってきたのは、司法に携わる大人たちだ。

痛烈な叫びであると思います。世の中というのは弱者に対していかに冷たいか、という事かもしれません。この世の中が人間が操作できぬ自然であるとするならば、先天的にも後天的にも弱者は存在し、その弱者を虐げるだけの世の中であるならば、人間社会は混沌に向かうだけでありましょう。

日本人には、喧嘩両成敗という武士道の秩序が今も生きているのでしょうか。

江戸時代であっても人を殺すことは罪であったのですが、仇討だけは認められておりました。仇討を合法的に認めることが、殺人を抑止するための秩序であったわけです。

しかし、その秩序は、一度起きてしまった負の連鎖を止めることができません。憎しみは憎しみを生むだけでありました。

これに対峙するところに、現在の刑事裁判が存在します。基本的には、被害者遺族に当事者権限は与えられていないわけですから。

遺族である本村さんが、「司法に負けた。ならば犯人を外に出して欲しい。私がこの手で犯人を殺す」というセンセーショナルな発言をするわけですが、これは到底是認できないのです。

気持ちを推し量る事はできますが、そのような負の連鎖の社会、不安定な社会に少なくとも自分は住みたいとは思わないからです。

今日起きた殺人事件は、社会が全体として解決すべき問題であります。光市事件の少年にしろ、社会が生み出した殺人者であるともいえます。彼がその社会に対して犯した罪が、本村さんの妻・娘の殺害であったわけであります。

であるからこそ、どうしてこの事件が起きたのか、どうしてこの犯人は存在したのか・・ということこそを国民は知る義務があるわけです。

そして、それを明日の平和に結びつけることこそ、本来的な社会の自浄作用でありますし、一人一人の為すべき仕事なのでしょう。

そうして努力することによって、明日の犯罪を未然に防げるわけであり、自分が大切とを思う人を守れるのだと私は思います。そして、それが今の高度な文明利器である刑事裁判なのではないでしょうか。

司法に携わる大人が・・と今枝氏は言いますが、もっと言えば、世の中の大人すべてが負うべき事を負っていないことに、この事件の本質はあると言えるでしょう。自殺者が毎日100人といわれ、その予備軍が100万人にのぼるという心病むこの日本社会にあって、心病んでしまった少年一人をお気楽に死刑にすれば良いという楽観的な風情が理解できません。

少年は、ある種、現社会の被害者であったのですが、事件の一点において加害者になったわけです。加害者が罰せられるのは仕方ないとしても、その被害者である少年を生んだ、その環境や社会(つまるところ、少年への加害者)に問題が及ばないのでは、少年の死刑は犬死にならぬ、社会の生贄に他ならぬでしょう。

大人たちの創った社会の罪を、それが些細なものであれ、少年に押し付けていないと誰が言えましょう。

今枝弁護士は最後にこんな事を述べます。

犯罪を犯した人、あるいは犯したとされている人たちを、「自分とは違う人種」とばかりに、他人事のように突き放して見ることが僕にはできない。

思うに、人の闇は、排斥しあうことによっては消し去れぬものです。というのも、第一義的に、人が闇を作ろうとする様は、人を自分の中から排斥することから始まるからであります。

刑事裁判とは、そういう闇を振り払い、孤独な人間をこの現世に緻密なまでに浮き彫りにする作業なのか・・そんなキツイ作業なのだと改めて知った次第であります。

だからこそ、刑事弁護の意義は峻烈であり崇高でもあるのでしょう。

そんな刑事弁護を使命を持って行っている人々がいます。彼らが存することで、裁判は法の名の下の公平を生みだされ、安心感を与えてくれているのです。

人間の恣意性により裁判が捻じ曲げられうようであれば、それは不審な世の中でありましょうし、歴史の逆行であります。

そんな強い想いを感じさせられました。

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