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集団的自衛権

もう10年も前になろうか。鹿児島の知覧にある特攻平和会館を訪れた事がある。陰鬱な気持ちになると共に、何故こんな事になったのだろうかという、どうにも理屈では到達できない過去の事実に閉口せざるを得なかったことを記憶している。

集団的自衛権によって戦争の危険を回避できると考える人は、知覧に行き、そこで何が起こったか、そして何故こんな事になったのか、論理的な説明がつくのかどうかと考えてみて欲しい。同じ戦闘で死ぬにしても、こんなにも理解不能な死に方があるのだろうかと。

だがそんな事は筋道をたてて論じようとしても難しい。納得できる説明など聞いた事がない。誰が日本という国を戦争に向かわせたのか、何のためかすら誰もわからない。おそらく国際連盟を脱退する時も、まさか日本がアメリカと戦争をするなんて当時誰も思わなかったに違いない。しかし、そこから10年経って日本はアメリカと戦争を始めるのである。圧倒的な国力差、戦力差を知りながらである。結局、戦後処理においても、日本は誰かが戦争の責任を取るということはしなかった。他国の人々を殺した事は平和への罪とかで裁かれたものの、肝心の日本国民350万人を殺したことについて、誰も責任をとっていない。

日本人というのは、迎合の民であると思う。それはデモクラシーを自ら勝ち取らなかったアジア諸国全般に云える事かもしれない。つい何年か前まで、韓流なんていって、メディアは韓国の芸能・文化を垂れ流し、それに釣られ、多くの国民は良き隣人として韓国に親しみを抱いていた。ところが、韓国大統領が日本の天皇に謝罪要求を突きつけると、手のひらを返したように反韓国の狼煙にのっかたのである。天皇陛下が未だに、ナショナリズムの吸着剤としてこうやって機能するとは、ぞっとするような出来事である。

先の大戦を振り返ったとき、どこがターニングポイントだったのかというと難しいところではあるが、最初のターニングポイントはリットン調査団の持ち帰った結果に反発し、国際連盟を脱退する辺りであろう。怪しげな世論は、その選択を賞賛したわけである。だがしかし、その行為の意味をどれほどの国民が理解し、未来を予測したのであろうか。誰も止められぬ、逆戻りできない坂道を転げ落ちたのである。

太平洋戦争への道については、以前記述した(太平洋戦争とは )通りである。客観的に考えて、太平洋戦争にアメリカの正義なんてものは存在しなかった。野蛮な国である日本を倒すなんていうのは、全くの嘘である。他方、日本に正義があったかといえば、それほど素敵でもなかろうが、一応の建前はあったようだ。しかし、負けてしまえば正義なんてものは糞味噌である。正義があろうがなかろうが、350万人は圧倒的な力量の差があった米兵を前に無益に死んでいったのだ。正義で戦争を勝てるはずがない。戦争とはそんなものであり、人間は有史以来、そのような戦争を何千年も続けている愚かな生き物である。日本人も例外に漏れずにだ。

これらが正しいのであれば、私は日本の今の憲法に大いなる矛盾を感じる。日本に自衛隊が存在しなければならない事自体、矛盾なのである。人間は愚かにも争いを好み、一度戦闘を始めれば収集のつかない事態にまで発展する。個々人が積み重ねて来たあらゆる物を、暴力によって破壊する行為である。

さて、何故集団的自衛権が問題であるか、である。結論から先に云えば、日本という国はアジアをリードする為にも、立憲主義国家であるべきということだ。憲法というのは、国民を権力から守る為に存在している。立憲主義国家では、憲法を国の最高法規とし、権力が暴走しないよう、司法に最高法規の番人をさせる。従って、立法府が憲法に違反するような法律を作った場合は、司法は違憲立法審査権を使って法律を無効にさせることもできるし、また行政が憲法を無視した行いをするのであれば、それを正すこともできる。

ところが今の日本は、三権分立とはとても云えない状況にある。司法は、政治と関わる事を放棄し、立法は衆参両議員が安倍晋三を党首とする与党によって過半が占められており、行政は安倍晋三の力が強く誰も逆らおうとしない。つまり、立憲主義の原則が脆くも崩れ去り、その中で議論もされずに集団的自衛権を行政府が解釈している。本来的に憲法解釈を行政がする事はできない。それは、最高裁判所にしかできないのである。

アメリカではこんな事は絶対に起きない。大統領の権限は非常に限られており、行政よりも立法府と司法府が強い権力を持っている。アメリカの司法は強力であり、大統領にも議会にも使命をもって真っ向から立ち向かう。アメリカではデュープロセスが大切にされる。正当なプロセスを経ない決定事項は全て無効である。デモクラシーとは、唯一の権力によって国を動かさず、全員参加型の議論によってそれを尽くし、最後に多数決をとるというやり方である。このため、間違った判断をしたとしても、責任の所在がどこにあるかよくわかる仕組みになっている。

一方の日本はどうであろう。自由民主党というのはデモクラシーを標榜とした政党であろうと思うのだが、全くもってデモクラシーの原則は守られていない。そもそも、日本人自体が政治を遠ざけているため、全員参加型の政治議論をとかく敬遠する。日本人にとって政治とは、政治家という職業の「仕事」だと思っていて、自分たちの役割はないと考えている。それが選挙の投票率にも如実に表れる。投票にいかない人々は、投票しても政治は変わらないという。そして、国が変わらない、問題を起こすような決定について、全て職業政治家の責任にする。集団的自衛権の問題も、国民のナショナリズムさえ煽れば議論をせずとも何とかなると権力者に思わせているのは、基本的には政治への不参加、議論への不参加を日本人が決めてしまっているところに大きな問題がある。

こうした日本人の政治に体する姿勢は今に始まった事ではない。明治維新以前からずっと、日本人は政治に関心を示さない民族であった。つまり、お上に従属的な人種と云える。先の大戦のときもそうだった。誰が何を決めたか知らず、誰もが知らぬ間に、日本は戦争への道を歩んでいた。自分たちで道を選択したのではなく、気がつけば、その道を歩かされていたのである。何故、こんな事が起きるかと云えば、クールな議論をせずにナショナリズムに身を任せるからである。ナショナリズムに身を任せると、相手を見失う。巨大なベクトルが内側に出来る為、自分自身もがその磁力によって雁字搦めにされるのである。冷静になって誰かが止めようにも、理屈では止まらない。

先の大戦にあっても、きちんとした議論ができていれば馬鹿げた戦争を回避したはずだ。その意味において、戦争を回避する最高の手段と云うのは情報開示とクールな議論である。五分五分の戦争なんて誰もやらないし、ましてや十に一つも勝ち目のない戦争を、ナショナリズムと云うエゴイズムを正当化する為にすべきでない事は誰にだってわかるはずのことなのだ。泥沼のベトナム戦争を経験し、冷静な議論をするはずのアメリカでさえ、どうしようもないイラク戦争を始めてしまった。冷静な議論ができず、ナショナリズムに沸く日本が、今後どうやって戦争を回避すると云うのだろうか。

集団的自衛権の成立過程を見ていると、まさに、このナショナリズムに身を任せた、プロセスを無視した仕業に映る。所詮解釈に過ぎず、これを認めれば、時の政権が時の空気に身を任せ、権力を行使する事に他ならない。こんな日本であるから、憲法という最高法規が重要なのであろう。戦争を放棄すると云う日本国憲法は、戦争回避する為の唯一の守りなのである。この憲法を蔑ろにする日本は、デモクラシーが未だ根付かない二等国家なのだろう。

自衛隊は憲法違反ではないかという人がいる。その通りである。だから、自衛隊が必要なのであれば、自衛権だけは認めるよう憲法を変えなければいけない。何故、その事からずっと逃げているのか私にはわからない。最高裁は、自衛隊が憲法違反である事を放置してしまった。つまり、こうした高度な政治には口出ししない姿勢を過去に作ってしまった。これを逆手にとって、安倍政権は集団的自衛権の閣議決定という暴挙に出た。この憲法解釈の違憲性を争うと、そもそも自衛隊が憲法に違反するという結論になってしまい、今更そんな事を言って自衛隊を解散させる事なんて出来ないからである。

日本はどんな国になりたいのだろうか。安倍晋三は、日本は普通の国になるんですと云う。日本は普通の国になりたいのであろうか?自分たちがどんな国になるべきかの議論が全く抜け、結論から入るからこの国はおかしい。原発の問題も同じである。日本人として問題を解決しようと云う姿勢が全くないことが、この国の致命的な欠陥である。これでは再び戦争に負けかねない。誰かが、何の権限も持たず、ひっそりと国の方針が決まっていくのであるから。私は、そんな国になってもらいたくない。もっと理性的にアジアをリードする国になって欲しい。間違ってもナショナリズムに身を任せる国であって欲しくない。それが、先の戦争から学ぶと云う事であろう。その結果として、平和な国であってほしい。単に与えられたような、何も考えない平和はいらないと思う。軍隊が必要な社会であるのであれば、そのコストもしっかりと払うべきだ。

本当に戦争を回避したいなら・・・誰とも喧嘩をするな、交通事故を起こすな、というくらい矛盾を含むものの・・・デモクラシー体として、戦争を回避する仕組みをしっかりと作るべきである。これは外側に向けて作るのではなく、内側に作るべきである。本来、憲法がこの役割を担う訳であるのだが。そしてよりクールな議論のできる国家体を作るべきと思う。国家体とは、即ち、行政、立法、司法がバランスよく立ち振る舞い、準公的な役割を持つメディアが多様性をもって報道する姿であろう。その上で、外国の脅威に対してどのように対処すべきか、戦略的に議論すべきであろう。その一つが、もしかすると憲法改正を行っての集団的自衛権の行使になるのかもしれない。

原発再稼働の反対について、司法が国民の住む自由を損なうといった趣旨の判決を書いた。これはその通りである。我が国民は、憲法に保障される自由を侵されてはならない。権力は、この自由を侵さない中での国家運営を求められているにもかかわらず、強引に原発再稼働に突き進む。沖縄の問題もしかりであるが、こうした行政権力の肥大化は、人類が来た道を逆戻りさせる。尤も、何もかもがうまくいくような解決策はないだろう。しかしながら、優先順位が何であるか見極める必要があると思う。メディアに登場する専門家面をした面々は、自分の角度から持論を話すわけであるが、全く持って優先順位の観点が欠如している。国家運営、国民にとって一番大切な筋は何か?出来得るならば、それを我々の手で憲法に書くべきであり、それを国家としてきちんと守ることだろう。多種多様、バラバラの人種が入り交じるアメリカでは、憲法が崇高なまでに遵守されるというのに、単一民族と呼ばれる日本国にそれが何故できないのか、甚だ疑問である。

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