旅で考えたこと(靖国)

さて・・靖国についての記述をする。

日本に根付いた宗教について考えてきた・・・その結果、今の日本の状況というのは、世界史の中においても稀有な無宗教状態に落ち着いており、世界常識では考えられない文明国家を歩んでいる。

なんとも不思議な国だなぁと考える。しかし・・よくよく考えてみれば、日本人はやはり神道を柱にして成り立っている。伊勢神宮へ行ってみて、その事に改めて気づかされたのである。

アザラシのナカちゃんとやらが死んでしまったそうで、それを町の人々が大勢で線香を立てて弔い・・さらにナカちゃん音頭で踊ってしまう・・。滅茶苦茶だな・・と思いながらも、これが日本人なのだなぁと頷く。

そう考えた時・・国家神道が歴史の特異点として存在していた過去を、日本人として振り返る必要性に駆られる。

長々と・・キリスト教、仏教、神道、国家神道について触れてきたが、今回で終わりとする。

ただし・・靖国問題には触れない(結論だけ話すが・・)。

なぜならば、あれは政治問題であるし、極東軍事裁判の問題と天皇の敗戦責任の問題とのセットであるからである。この二つが解決難しい命題であり、戦後ずっとほっとかれてしまっている以上・・触れるとややこしくなる。

まず・・靖国神社とは何か?

靖国神社の前身は東京招魂社と呼ばれていて、長州藩士大村益次郎の提言によって明治2年に建てられた。

官軍の名を持って・・薩長土肥の藩士によって幕末の革命は遂行され、明治新政府は日本に突如として勃興するのである。しかしこの革命政府は直接的な指揮系統のある軍隊を持っていないという致命的な欠点を内在していた(そんな革命自体が稀有である)。

同時に徳川幕府の流れを引き続き、当たり前のようにして200を越す諸藩が存在していた。そのために武士はそれぞれの藩に帰属している。

彼らは変わらずに藩から俸禄を受けており、奉公の主である藩主のために命を落とすことがあっても、勃興したばかりの得体の知れぬ新政府のためにその命を使う事はないし、命令をきくという事もあるはずがない。

つまり・・一国家としての統一思想に程遠く、国家なんてものは無かったと言える。国のために命を使うという事はどういう事か?即ち・・公的な死(お国のための死)、又、天皇への忠誠を形として具体的に説明する必要性があったのである。

思想的な意味でいえば、明治に入ってしばらく経った後にようやく自由民権運動が起こるわけであり、明治維新成立時においては、誰もが(西郷隆盛でさえ考えられなかったのだから・・)自らを一日本国民だとは考えていなかったであろう。

およそ無茶苦茶な事をしてしまったわけである。

世界の帝国主義の仲間入りを目指す日本は、とにかく国家というものを(まずは)概念的に成立させる必要があった。そのために武士を廃業させねばならなかったし、中央集権体制の確立のために諸藩を潰し、国のために働くという・・国民を創っていく必要があったのである。

この作業が・・廃藩置県という作業であった。鹿児島県だけは薩摩藩として唯一独立的な存在を続けるのだが、西南戦争によって士族の全面的な敗北に終わり、侍家業という独占的人種が日本から消え、代わりに国民が誕生する事となる。

維新の功労者の多くの死が靖国に祀られたにも関わらず、維新最大の英雄であり、日本国家最初の陸軍大将であった西郷隆盛が靖国に祀られなかったというのはこのためである。

この後、神道を国教とし、東京招魂社を靖国神社と改め、以後神道によって祭祀する事となる。

明治政府は神道を改め、国家神道と呼んだ。

幕末時代の世界は前述の通り植民地時代である。世界は帝国主義国家により分割統治された時代であり、その国々はみな一神教国家であった。つまり・・それを真似たのであった。

日本が列強の植民地にならないために、明治政府は国を一つにまとめるための強烈なイデオロギーを政治的理由から必要とした(これはまさに時代の要請であった)。この道具として天皇(天子様)が切り札として存在する。

後ろ盾を持たない初期の明治政府は、とにかく天皇という概念を盾にして政を進めざる終えなかった。平田国学や水戸学などの尊王思想を吸い上げて成 立した革命政府としては、この思想エネルギーをより具体的に有形化する事によって、新興政府の機関として仕立て上げようとしたのである。

要するに・・神道のイデオロギー化の立場として国家神道は具現化され、靖国神社を国民の教義として利用していったのである。このようにして帝国主義的国家建設を目指すのだった。

幕末の日本は、神仏習合といって神も仏もまとめて信じる事を許していた(これは奈良時代の大仏建立まで遡った話で、当時から神道が認めてきた事だった)。しかし、純粋な国家神道の建設を目指す政府は、神仏分離を行い、また廃仏毀釈を進める(平田国学等の要請もあった)。

余談であるが・・この時、日本の仏教の文化財の3分の2は強制的に破壊されたといわれている。それほどにすさまじい政策であり、国家の必死さが伺 えるのである。そして神道の教義化が進むにつれ、軍国化を遂げていく。この流れにおいて、国家神道が国民の忠誠と献身を引き出す道具として位置づけられて いったのだ。

ひょっとしたら日露戦争勝利の最大の要因は、この靖国神社や護国神社の存在にあったのかもしれない・・というのはあながち嘘ではないだろうし、少なくとも僕はそう考えている。

こうして靖国神社と国家神道は、国民を一致するための大きな求心的役割を果たす・・と同時に、被占領地においての現地人の教化に使用された。

欧米がキリスト教を用いて植民地支配を思想的に行ったのに対し、日本は国家神道を用いて現地人(朝鮮、台湾、満州)の日本人化を行い、彼らの文化 歴史を抹殺し、統一化を図ろうとしていったのだった。それが日本の唯一の占領政策であり、これが大陸の人々が忌み嫌う元にもなっているようだ。

歴史についてはこんなところで良いだろうか・・

何をいいたいのかといえば・・こんな神社が今の日本に必要なのかどうかという事である。

歴史の面白さでもあるのだが・・起こしてしまった明治維新・・その後の国家建設において、国家神道と靖国神社は強力なパフォーマンスを示した。これは誰の罪かを言及する事に意味が無く・・時代による要請であった。

しかしながら、それが行き過ぎたことによって、敗戦を導く。

であるとすれば・・靖国は本来のあるべき姿に戻る事が、戦後60年を過ぎた今となって、考えてもしかるべきであろうと思える。それがまた・・現代という時代の要請なのではないだろうか?

国家神道は・・本来神道であるのだ。


8月15日になると靖国神社には多くの戦後世代の人々が参拝をするという。これらの人は国家神道の徒ではなく、そのほとんどが、日本人としての死者を弔うという精神的発想に起因して行動をしているはずである。

ならば、死者を選り好みするような・・融通の利かない形をとる必要ないだろう。ましてや分祀ができないなんてのは甚だ可笑しい。

8月15日・・つまり終戦記念日に靖国に行くという事のややこしさは、日本人が戦後処理をしてこなかった事にある。

日本人が日本の歴史に紳士として向き合うとするならば、本来ならば靖国神社は資料館にでもしてしまうべきであろう。過去の遺産なのであるから。

何千年の歴史の中の唯一70年やそこらの特異点として靖国は存在していたわけであり、日本人の心に根付く神道からそれを眺めてみれば、異端に違いがないわけであるのだから。

ましてや・・一国の首相が公式参拝するなんてのは恥ずかしい限りである。外国が何を言うかなんてのは関係がなくて・・・

歴史を振り返るとはそういうことである。それと、死者を弔うという事は別の話であるはずなのだ。


宗教というのは・・人類の精神的歴史でもある。一つ一つに深みと面白みが蓄えられている。

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旅で考えたこと(後編)

08.13.2006

この日も朝早くに目が覚める。陽がようやく昇り始めようとする頃には宿泊先のユースを出ていた。

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壇ノ浦を目の前にして・・三度潮の流れが変わり、最後に源氏が平家を追い詰めたという源平合戦を想像していた。今は忙しそうに大きな船がこの海峡を行き来しているのだが。

せっかくだからこの海峡を足で渡ることにする。そして、関門海峡の地下トンネルへと降りた。

海の下というのは涼しいものと思いきや・・暑苦しいばかりであった。。1キロ弱の地下トンネルを歩いて九州へと上陸する。上陸という言葉も変だなぁ・・という印象で、つまりは地下ベースで言えば陸続きであるという。当たり前か。。。

ここから門司港の駅まで歩く。いくら朝であるとは云え8月のまっさかり・・太陽が昇り始めた8時そこそこ・・ボストンバックを片手に1時間も歩けば、そりゃぁ疲れるさ・・汗はだくだく。

まぁ痩せて何よりとも。

電車に乗り一路博多へ。

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博多ではお友達と待ち合わせて太宰府天満宮へと向かう事に(その節は大変にお世話になりましたっ!)。今回の目的の一つである、菅原道真の学業お守りを買うために。それから、途中で食べた梅ヶ枝餅はとっても美味しかったです♪

キリスト教の話をここまでしてきたので、今度は少し神道に話を食い込ませてみる。

菅原道真は神道の人物神としては勢力的に出色である。というのも・・日本全国にある天神信仰において、天神様として祀られているのだ。歴史上の人 物がそのまま神格化され祀られるという事は神道においてよくある事であるのだが、ここまで全国組織的に祀られている人物神というのも珍しい。

何故、菅原道真は天神様となったか?

9世紀の生まれといえば・・平安時代。それは藤原氏繁栄の時代である。菅原道真は学問の神様と言われるように、秀逸な頭脳を持っていたようである。そのために宇多天皇の信任が厚く、宮中の要職を歴任していく事になる。

醍醐天皇の時代となってもそれは変わらずであったのだが・・この道真の権力集中に恐れを感じた藤原氏は、彼の失墜工作を企てる。覚えのない濡れ衣を着せられ、道真は大宰府へと左遷されてしまうのだった。

大宰府に流された道真は、京都に残した妻が死ぬと、それを追うようにして死んでしまう。

すると京都に異変が起きる・・

京都では謎の疫病がはやり、醍醐天皇の皇子が次々に病死する。さらには天皇の居住している清涼殿が落雷を受け、多くの死傷者が出たのである。

京都は騒然とし、これは道真の祟りに違いない・・

清涼殿の落雷によって、道真の怨霊は雷神と結びつけられ、火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立する事となる。道真の亡骸のある大宰府も、太宰府天満宮として道真の怒りを静めようとしたのである。

以降、道真を「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。余談だが・・天神信仰の本社は、大宰府と北野の両方となっている。

ちなみに・・それ以前にも天神様というのは民間信仰において全国的にみられている。雷の神様というのは雨雲を呼んでくるという事で、特に農民にとっての信仰力強い神様であったと言われている。そうした偶像的な神様が人物神として取って代わったというのも・・何やら面白い。

博多といえば・・天神であるだろうが、まさに菅原道真の影響色濃しといったところであって、僕にはここらへんの興味が非常に強く、神道という無教義宗教の面白おかしさがなんとも好きである。

後に、靖国の国家神道にもちゃんと触れていく事とするのだが・・

神道の性格は、一言で云えばいい加減そのものであって、所謂ところの教義がない(神道でも教派神道(神道十三派)では教義が全くないとも言えないのであるが・・)。

神道の特徴として・・古来より「神ながら言挙げせず」とされており、神様は沈黙をするものなのである。逆に言えば、この神道のパンチ力の無さが、帝国主義下においてイデオロギー的欠陥という不満となって、国家神道の誕生に結びつく。

靖国神社が、教義上において英霊を分祀ができないといっているのを聞いて・・何だそりゃ??と思うことがしばしある。

国家神道は宗教ではなくなっているはずだし・・宗教的に考えたとしても、神道が分祀を拒んできたなんていうのは歴史的に矛盾している。神社は都合によって名前だって変えてしまうものであるし、神様を移す事にだって躊躇いがあったとは到底思えない。

むしろ僕としては、そのご都合主義が日本人にあっているともいえると思うし、その柔軟性というのが日本人の文化的精神に形而上的な側面として入り込んでいる気がしてならない。

故人で云えば、古ければ古いほど尊く扱われるのが神道の特徴でもあって、亡くなった人は誰を祀たっていいというのもわかりやすい。

挿話が長くなってしまったが・・菅原道真というのは、凄い人物だったに違いないと思うのである(笑)

こち吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

道真が京都から大宰府に左遷される事となり、大好きな庭の梅の木との別れを惜しんで歌ったとされている。

主がいなくても春を忘れずに綺麗に咲いておくれという内容である。

平安時代の歌が・・こんな自分にでも理解し想像する事ができるというのが、道真の文才なのであろう。

その夜は博多駅前のカプセルにて一泊し、翌朝で暑くなる前に出発する。


08.14.2006

この日はJRを使って熊本方面を目指す。

しかし途中で気づかされるのだが・・九州のJR鈍行は駄目だ。。特急に抜かされてばかりで、ものすごく時間を食われてしまう。大牟田までは私鉄で下るべきだった。

当初の予定では、西南戦争激戦の地である、木葉、田原坂や植木あたりを歩き、熊本まで下ってさらに三角線というのに乗り換え三角まで行き、さらに バスで天草諸島に上陸しようと考えていた。ただ時間の都合を考えて、熊本まで下りずに途中の長洲というところで、有明フェリーで島原半島への上陸とした。

長洲という閑散とした駅に降り立ち、フェリー乗り場へと向かう。
有明海は近いと考えていたのだが、どうやら炎天下の中で歩ける距離でもないためタクシーを捕まえる事とした。

港に着き、ほどなくしてフェリーがやってきて乗船。

 


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有明海は内海という事で、あまり綺麗な海とは言えない。しかしながら、そこから望む雲仙の景色は本当に素晴らしかった。


フェリーは島原の多比良という町に着く。サッカーの国見高校がある町であるそうな。

ここから島原鉄道に乗り、諫早湾を右手に眺める。長崎に到着したのは2時頃であっただろうか。

203858028_5s長崎ではカトリックセンターに宿泊する予定であったため、まずはそのそばにある爆心地付近へと向かう事にした。

原爆が長崎に落とされた当日というのは雲の多い日だったそうで(小倉爆撃はそれによって変更されたのだが・・)、目視によって落とされたプルトニ ウム型原子爆弾ファットマンは、予定の長崎市街地をはずして松山町上空にて炸裂する事となる。そのために、被害者の数が少し減ったと考えられている。

原爆に関する記述は(広島)でした通りである。灼熱の太陽の紫外線が痛いような日であり・・爆心地碑にたたずみながら・・上空で炸裂したであろう原爆をこの日の太陽に頭の中に模写し、暑苦しい蝉の鳴き声を聞いていた。

その日も蝉の鳴き声が煩かったであろう・・11時2分までは・・その後は生命体が一瞬にして消え去ったわけであり、この町は空虚となったのだった。そう想像していると・・再び涙腺故障に陥ってしまうのだった。


爆風によって全壊したといわれる浦上天主堂へと向かう。

ヨーロッパで数々の教会を訪れた自分としては、日本の天主堂というものに物寂しさを感じる。とは云え、僕としてはこっちの方がよっぽど宗教的な落 ち着きを感じる。本場の教会というのは、それは荘厳そのものであり、ステンドグラスの素晴らしさは筆舌に尽くしがたいのだが、どうも神々しすぎるのであ る。


この日も早めの就寝をして、翌日は長崎の市街へと向かう。100円の路面電車に乗って朝から大浦天主堂へ。その行く途中にあるコルベ館を訪れる。

コルベ館では、背中が少し曲がりかけたお婆さんが一人でいた。

「人のために死ぬなんてできるもんぢゃないやなぁ・・特に今の日本なんかにいたら信じられない事・・」

そんな風にコルベ神父を評していた。

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キリスト教の愛というのは痛みを伴うものである・・そしてキリスト教の愛というのは押し付け愛であるという要素が非常に強いものだと考える。人の ために進んで自分が痛みを味わうというのであるから。おそらく・・キリスト教というのは哲学的性向というものを一切昇華しきってしまっていて、絶対な愛と いうのを定義するのであろう。

コルベ神父の言葉である。

「ここに愛がないのなら…、我々が愛をつくらねば…」

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キリスト教では罪という言葉を使う。この言葉は、人間という・・哲学の対象物から掘り起こされて出てきたようなものではない。人間というものを不 可思議な側面から捉えるのではなく、あくまでも神様という絶対的存在をおく事で罪を定義し、難しい問題を回避している感がある。キリスト教とは罪との戦 い・・となる。

キリスト教では罪を告白する機会を与えている。懺悔なんていうわけだが・・要は自己否定をしなさい。そうする事で、神様の前であなたは強くなりなさいと説くのである。

コルベ神父にとって・・アウシュビッツで囚人の身代わりとなって死ぬという事は、罪を作らないために為し得た業なのであろうか?僕はこの点が強く不明なのである。

その問題を少しでも和らげようと、この長崎という地を訪れ、旅の目標地点としたのである。彼が一体何を考えて死んでいったのか?14日間も何も食べ物を与えられずに毅然と生き、最後に注射を打たれて死ぬまでどのような心で生き続けたのか?

コルベ神父が自分の生命をかけて救った命がある。
「私には妻も子供も居る!死ぬのは嫌だ!」 と言った男である。名をガヨヴィニチェクという。1995年に亡くなっている。

彼は見も知らずの人に助けられた事が驚きだったそうである。アウシュビッツを生きて出た後に、自分の命を救った想いであったはずの人が、既にこの世にいない事を知る。また同時に、自分を救った人間が有名な神父である事も知ったそうである。

何故自分のような人間が生きて残り、聖人とまでなる神父が自分の代わりとなって死んでしまったのか?この事で苦悶したという。彼がコルベ神父の事について口を開くまで・・随分と長い時間がかかっている。

それは、自分が生き残った事の無意味さについての戦いであったのだろう。助けられた命を粗末にはできない・・しかしどうしたら良いのだろうか・・と。彼は果たして救われたのであろうか?

コルベ館ではいくつもの写真や絵が飾られている。その中の一つにこのような事が書いてある。

「アウシュビッツ強制収容所内の聖コルベ終えんの地下室。人間の尊厳を全く踏みにじったこの場所で、神父は最高の愛を生み出した信仰によって、勝利を得た。」

全くの違和感を感じる。本当にそれが勝利であるのだろうか・・。結局、これがキリスト教という宗教の信仰性の限界なのだと僕には感じられてならない。

遠藤周作の「沈黙」・・幕府の切支丹弾圧に対し、踏み絵を踏む事は殉教であり喜びであった。であるとすれば、愛とは一体何なのだろうか?神様が愛を定義するのだろうか?それに対する彼なりの答えを、遠藤周作は最後の部分で記述している。



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長崎という町は、山と海に囲まれた小柄な町であった。外来文化に対していち早く対応してきた歴史を持ち、欧的な雰囲気を持ちつつもそれを日本文化に溶け込ませている風である。それが僕にとって好意的に映った。


さて・・もうそろそろ帰ろうかという昼過ぎに、突如雷雨が降り始める・・予期もしない雨に、あぁこれから帰るんだなぁと匂わされる。

電車は長崎本線を使って佐賀を通り博多まで向かう。缶ビールとつまみを買い込み、僕は夜行列車に乗り込む。明日は大阪、奈良へと向かう事となる。


08.15.2008

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ゆっくりと走り出した夜行の中で、ビールをちびちびと喉に通し、折り返した旅というものを少し振り返り始める。

日本に生えた宗教を追いかける旅・・であったと話した。同時に、その日本史が生暖かい風となって僕の鼻腔を擦っている感じであった。もうすぐ日付が変わって15日になろうとしている。

話を脱線させる。

明日15日は終戦記念日であった。これは間違いであると言ってみる。


終戦という言葉はメディアの植え付けによってできたものであった。1963年、8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるように閣議決定がされ一般化したと言える。

15日が終戦の日であるという証拠は何一つない。軍の停止命令が実質的に出たのはその後であるし、大本営より外地(日本国外)部隊への全面的な戦闘停止命令となると、22日であったとも。

15日以降も厚木基地では徹底抗戦を叫んでいたし、何より・・戦闘はずっと後まで行われていた。


余談であるが・・フィリピンに取り残された小野田寛郎少尉は終戦後30年間もゲリラ戦を続けていた。仲間は終戦後も戦い、一人一人戦闘によって死 んでいったという。彼らは独自で諜報活動を行い、日本がアメリカによって傀儡政権を立てられたと思い込み、その奪還のためになんと30年もフィリピンの奥 地で活動を続けたそうである。彼は1974年に、歴史的事実を説かれ説得工作を受けるが、それでも直属の上官の武装解除命令を必要としたという。その後、 任務解除の命令が伝わり、彼は軍刀をようやく置くのであった。

終戦という言葉は曖昧で他ならない。敗戦という意味では、9月2日・・東京湾上での米戦艦ミズーリ号での降伏文書の調印日・・であろう。

尤も、日本は本当に無条件降伏を受け入れたのか?という疑問が残るが、ここでの議論はパスする。ソ連との戦闘はその後も続き、4日になって北方領土がソ連の手に落ちている。

日本人感覚において8月15日というのはお盆の日であり、そもそも死者を供養する気持ちの強い日であった。これが戦没者慰霊に形而上的には結びついている。

先の戦争において、8月15日は玉音放送が流された日であるというだけである。それを国民心情として、終戦日として戦没者を追悼する事としたのである。

戦後の厭戦ムードからすればそうした事は仕方なかった事でもあったのだが、敗戦から目をそむけようとした事も事実であり、これが天皇の敗戦責任や極東軍事裁判史観の曖昧さにも繋がっているという気がする。

感覚的に言えば、15日に戦没者に哀悼を送るというのは、神道国民の日本人として正しい感覚であろう。しかしながら、それが靖国という国家イデオロギーの塊に対してであるべきかと問えば・・突如意味がわからなくなる・・・。

大戦で亡くなった人という意味では・・身元不明の遺骨が眠る千鳥ケ淵戦没者墓苑の方が相応しいような気になる。靖国に祀られている人間は・・イ コール戦没者でもないわけであり、終戦記念日に当て込んでこれを追悼するというのは、国家イデオロギーであった国家神道的祭礼になりかねない側面を持つ (靖国的には8月15日は意味のない日であるが・・)のだ。

さてはて、国家神道の掘り起こしは・・もう少し先送りにするとして、話を旅に戻す。



窓側に座っている隣の人が、列車のカーテンを上げていたために、朝陽が僕のしかめ面へ向けて飛び込んでくる。夜行列車は6時半過ぎに大阪駅へと乗り込んだ。

この後、すばやく天王寺まで環状線を使って行き、そこで下車し近くの漫画喫茶でシャワーを浴びる。少しばかりくつろいだ後、カフェでモーニングコーヒーを飲んでいると・・待ち合わせていたお友達からの連絡が入る(朝早くからありがとう!!)。

JRを使って二人で奈良へと向かう。4年ぶりだとかの再会であったのだが・・僕のその記憶があまりにも曖昧すぎるため・・しばしそんな談笑に花が咲いてしまう。面目ない・・。景色を見る余裕も無く、気がつけば奈良。

奈良駅を降りると、盆地特有の暑さが僕らを包みこむ。相談をしながら、まずはバスを使って東大寺へと向かう事にした。

バスを降りると鹿が・・たくさん。物欲しそうな目をしてこちらを見ているので、鹿せんべいを買うことに。彼らは鹿せんべいを買う前から・・早く買えよと言わんばかりの顔つきを見せる。

買ってそれを手にすると・・厚かましい勢いで迫ってくる。若干・・東南アジアでの物乞いの子供を連想してしまった。必要のない連想だなぁ・・と思っていると、せんべいは既に彼らの胃袋に消えていた。

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東大寺ではまず、「そびえ立つ」といった表現がぴたりと当てはまるような南大門が我々を迎えてくれる。

左右には・・あの運慶と快慶が作ったといわれる・・巨大な木彫りの金剛力士像が並んでいる。その迫力というものは、仏教全盛期の面影を伝えてくれるようである。

さらに足を進めていくと、大きな大きな講堂が現れる。そして中では大仏が静かに座っている。手の大きさはどのくらいであるか?なんて事で揉めるくらいに、威風漂う大仏であった。

京都の、風情あるまた文化的な遊びを匂わせるような寺の雰囲気とは違い、奈良の寺院では、日本で息吹をあげ始めた頃の仏教隆盛を感じ取る事ができる。

こんなにも気風が違うとは・・やはり訪れて感じてみないとわからないものである。

昼食後、一番の目的であった唐招提寺へ向けバスに乗り込む。

Book 唐招提寺への道

著者:東山 魁夷
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昨日から「唐招提寺への道」という本を読んでおり・・鑑真の半生やら、唐招提寺の金堂の素晴らしさについて・・唐招提寺という奈良時代随一とも云われる文化的遺産を、活字がどれほどの具体的再現性を持って表現できていたのか、そんな事を一つの楽しみを抱いていた。

ところが、寺の目の前まで来て知ったのは・・目当ての金堂が改修工事中であるという事であった。

講堂だけでも見ようかという案もあったのだが、金堂が見れねばどうしようもない・・仕方なしに近くにある薬師寺まで歩いて向かう事にした。平成21年まで工事は続くようで、奈良に忘れ物を残してしまう事となった。

薬師寺だけに当てはまる話ではないのだが・・奈良の寺や町というのは対称性に対する心配りが強く・・南北や東西に向かって、綺麗に整頓された道が走っていたり、塔の配置や門の配置が左右対称であったりする。

景観としての線形美を創り出す事で、奈良時代の寺院への格式の高さ、また文化的な美意識のあり方が伺われた。

逆に京都の寺で見られる造りというのは・・柔軟性に富んだ伸縮自在の柔らかさのようなものであり、その随所が多くの寺の庭園にて見て取れる。

池一つ、松の木一つに対して細やかな設計が施されている。その極みが、龍安寺の石の配置であったりするわけであって、時代や文化の違いをまざまざと見せ付けられる風であった。


陽がようやく落ち始め、奈良を離れる事となる。関西本線を使って最終目的地である三重へと向かう。

自走式2両編成の列車は、奈良の盆地を跡にするとしばらく川沿いを登るようにして走る。しばらく川との並走を続けると、トンネルに何度か身を隠す。突如小さな田んぼが姿を現しては消える。ひっそりとした空気が車窓の外には流れていた。

山々がなだらかに連なるここら一帯は、戦国時代に遡れば伊賀忍者の故郷であった。

08.16.2008

津で後輩の家にて一泊をする。懐かしい話に花を咲かせながら・・松坂牛を食べる・・ん!?・・松坂牛を食べながら、懐かしい話を添えるかな(笑)

翌朝、さっそく伊勢神宮へと向かった。JRの伊勢駅を降り、徒歩にて伊勢神宮の外宮へまずは。

外宮自体は人が少なく、とても気持ちの良い場所だと感じた。

バスを使って内宮に。

城下町の賑わいの中を歩き過ぎていくと・・伊勢神宮が見えてくる。

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今回・・伊勢神宮の描写はしないようにする。というのも・・今回が最後ではないだろうという事、また言葉にしたくないという事で、感じたことのみを書こうと思う。

神宮式年遷宮が20年に一度は行われるわけであり、少なくとも20年に一度は訪れなければならない。次回の大祭は2013年となっている。


伊勢神宮を訪れた感想を一言で表現すれば、自分が日本人であると気づかされたという事か。

京都や奈良の寺院を見て日本人だなぁ・・と思うことはこれまでもしばしあった。外人を見ながら、彼らのこの美しさがわかるのかね??なんて思ったものである。

だが、寺院の背景にある仏教というものはそもそも日本固有のものではないし、信仰宗教としての煌びやかさを纏っている。

比べて・・この伊勢神宮はどうであろうか。

自分が日本人だという事に感激を覚えずにはいられない、言葉にしようのない美しさ、神秘さを包摂しているではないか。煌びやかさ等とは対照的な美しさである。

天照坐皇大御神の神話がどうのこうのというのではなく・・故人によって古来より脈々と受け継がれてきた僕の細胞内の遺伝子が、形而上的にこの場所を強く受け止めている事を感じた次第である。

この雰囲気を言葉に書き下す事はうまくできない。

僕の夏の旅はここに目的を達成する。

長崎で大浦天主堂を訪ねコルベ神父を見てきて目的の半分を達成し、この伊勢神宮にて完結。日本に根付いた宗教というものを考える旅であった。

あとは・・電車に乗り込み、再びお尻を座席に圧迫させるという事を東京までしていくことになる。

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旅で考えたこと(前編)

夏の旅行記(8/10~8/17)を加筆保存をしておく。

8・11・2006

自分のまぬけな話から始めるというのもどうかと思うのだが・・

今回の旅は、唯一の夜行列車に乗り遅れるというハプニングから出発したのだった。毎度の事ながら・・旅の始めでこけるというのは、自分の癖のようなものらしい。

戸塚で乗り遅れたのだが、列車を先回りし・・大船駅から無事に「ムーンライトながら」に乗り込む。いきなりダッシュを要求されてしまい、のっけから汗だくだく。。前日の睡眠はわずかであったので、ビールを買って飲めばいちころだろうという作戦むなしく・・岐阜の大垣まで寝れず。

岐阜の大垣に着くと・・ここでまたダッシュ。10両編成に乗っている人たちが3両編成の電車に移るわけだから・・朝の6時頃ののどかな駅舎で・・人類の大移動が起こるのである。

4号車が階段のすぐ横に停車するとの事で、そこに移動し駅に到着するのを待った。睡眠を取れなかった自分としては、次の列車の座席を確保する事は一大使命であったわけである。なんともおおげさな・・・(笑)

その後、米原まで行ったところで快速の姫路行きへと乗り換える。朝の通勤ラッシュの中、大きなボストンバックを抱えた僕が世間の喧騒を他所に・・ここでしばしの熟睡に陥る・・

その後、岡山、福山と通過し、または乗り継ぎ・・3時前に広島に入る。睡眠は車中で2時間くらいは取ったのであろうか・・。その後は、遠藤周作著「沈黙」を読み耽る。

今までの人生に無いような・・優雅な!?・・本を読みながら、景色を眺めながら、ふと物思いに耽ながらの電車の旅はこうしてスタートしたのであった。


さて・・広島入りしたのだが、とにかく暑い。そんなのわかっていたよ!・・という事なのだが。

目的地である原爆ドーム、また平和記念公園とその資料館へと向かうために、僕は6番の路面電車へと乗り込む。路面電車は61年前と変わりなく・・駅舎から市内の中心に向けて走っていった。

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米軍が原爆投下の目印とした・・川がT字型に流れる・・相生橋をゆっくりと渡りながら空を見上げた。太陽は人の気持ちなんてお構いなしに強く照りつける。あの日もそんなだったのだろうか・・人の気持ちも何もかも汲み取ることも無く。

原爆ドームを見て・・平和記念公園を歩いて周り・・普段、涙腺を締めているはずの弁が壊れたように目を腫らす。暑く陽が照る中・・サングラスの下に 流れ落ちる熱いものが止まず・・その制御不能具合に少しあきれてしまいながら・・しばしベンチで休息をとり、深呼吸で息を整える。

この地に、そしてこんな暑い天気の日に・・空から原爆が降ってきたのだと、そして一瞬にして何もかもが破壊されたのだという事を、僕は肌で感じようとしていた。

核力の物理学を誇りとして歩んできた自分にとって、この悲しみの地はどうしても訪れなければいけない場所であった。

僭越ながらも・・マンハッタン計画に参画した、フェルミやファインマンの・・彼らが言えなかった・・代わりにでも、亡くなった人々に対し追悼の気 持ちを送りたい想いで心がいっぱいであったのだ。贖罪意識というと随分とおおげさであり勘違いを包摂するのであるが・・それに似たようなものを自分の心のうち に秘め、この悲劇の町、広島の町を、そしてねり歩いた。

その上空でリトルボーイが炸裂したと言われる島病院跡を訪れ・・そこから中心部となる商店が並ぶアーケードをくぐり、再び陽の強く当たる大通りへと出る。

資料館では特に見るべきものはなく・・というのも自分が今まで調べてきたものばかりであり、目新しい驚きがあるわけでもなかった。

ただ・・(長崎でもそうであったが)原爆投下時刻の8時15分を刻んで止まっている時計を目にすると、その現実が自分の体内を駆け巡り、先ほどのとめどない涙腺故障を引き起こしてしまう事には手を焼いた。

その後、別の資料館にも行き、亡くなった人々の顔写真と名前を延々と眺めていた。そして「ごめんなさい・・・」と、呟き続けていた。科学者の引き起こした惨事に対し、他に適当な言葉が見当たらず・・冷房の強く効いた館内で1時間近くをすごした。

 

最近の自分は・・どちらかといえば憲法改正の思考によっている。来る国民投票において、自分が一国民としてどういう意思判断をしなければならないかと深く悩むのだ。しかし、この核の悲劇だけは二度と繰り返してはならない。これは全くの矛盾に近い・・

寝不足の状態で猛暑の広島の街を歩いた事もあって・・その日はぐったりきてしまい、ビールも飲まずに早めの就寝。おかげで・・次の日は朝の5時半には目が覚め、6時過ぎには宿泊したユースを出て、一路山口へと。


8・12・2006

列車に3時間近く揺られ、新山口に到着。ここで自分を待っているのはSL山口号。まぁ・・オタク的記述をする気も無いのでここでの詳細描写は割愛する(笑)。

蒸気で動く機関車というのが・・そのメカニズムが・・僕としてはただただ感動的であり、明治・大正時代の活躍期の鼓動を彷彿させるその姿に歴史を感じ、また、機関車のぎこちない前進と蒸気の噴出音の旋律に酔いしれるのだった。ぽ~~~~っ。

山口駅で下車し、そこからは裏日本の萩へと、バスで向かう事に。今回の列車の旅においての初バスである。

山肌を縫うように車は進み、峠をいくつか越えて見えてくるのは小さな城下町・・萩である。江戸時代・・毛利の殿様のお膝元、そして明治維新の胎動を起こした街というものがこんなに小さなものだったのか・・美しい姿に感慨を覚える。

萩に来た目的は・・ずばり松蔭神社。

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山陰本線の東萩という駅は電車がほとんど走らず、本日の終着地である下関に行くためには、1時過ぎの電車を乗り過ごせば4時過ぎまで待たなければならなかった。

既に太陽は南から西へと動き出している時間であり、必然的に萩での4時間ばかりの滞在がここに決定する。

炎天下の中、松蔭神社、松下村塾へと向かう。

吉田松陰は2年間ばかり、この松下村塾で弟子達と過ごし、尊皇攘夷を語りあう。藩校である名門の明倫館に行けぬ下級藩士の集いが・・ゆくゆく・・明治維新という大きな花火に直結するとは誰も夢には思わなかったであろう。

小さな小さな座敷があり、ここで高杉晋作や久坂玄瑞らが吉田松陰を囲み、どのような営みが形成されていたのだろうか・・そんな事をしばし想像しなが ら、流れ落ちる額の汗を拭う。まで・・蝉の合唱が耳に痛いくらいであったのだが・・このときばかりは、今にも志士達の声が聞こえてきそうであった。

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ここで僕の大好きな松蔭の一句を紹介する。

「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂」

僕も似たような境地を感じることがある。常日頃・・打算性の中に身を投じている自分、確率統計の力というものを頭から信じ込んでいる自分・・そんな律儀でつまらない自分がいる。

それに抗するかのように・・自分の確率的信念を、紙ごみを造作に丸めてゴミ箱へ放り投げるかのような自分がまたいる。人間が事を成すためには(良し悪しを別にして)、馬鹿にならなければどうしようもないと感じるのだ。

さてその後は・・玉木文之進の実家に行ったり、伊藤博文の家に行ったり、高杉晋作の生家を訪れたり・・。あとは不思議なうどんを食べたり(笑)。このうどん屋では4人のおばさん達に囲まれて、僕が時間をもてあましていた事からも談笑を少し・・

 

うどん屋のおばさん達にとってはいい鴨がやってきたのであろう・・。僕が東京からやってきた事を知ると、東京の景気は良いかね?などと聞く。どうしてこんな事を聞くのと・・察しがつく。その辺の機微を汲み取りながら受け答えする。

といっても、積極的に話すわけではなく・・そうですかぁ・・うんうん・・と頷くばかりであったが。小泉首相が松蔭神社にやってきた話もしていたが、ここでは極めて不人気であると。息子が男前であるというような話の方が随分と賑わった。

僕が頼りないように見えたのかどうなのか・・「おにいちゃん、まだ嫁ばおらへんやろぉ~。そういう責任感のある顔をまだしていないやなぁ」・・所帯じみていないという事なのかどうか(笑)。

経済力があるようにも見えなかったのだろう・・「好いた惚れたで結婚しちゃいかんねぇ女は。経済力がないとどうしようもない」・・随分と生の声を 聞いてしまったなぁと考える。世の中は経済であるという自分の信念が・・こんな油断しきった状態において肯定されるのは、どうにも具合が悪かった・・。

萩という小さな町をぐるりと巡り・・駅に戻ってきたのは4時少し前だったろうか。JR線がやってくるのを30分ほど待つ。

今回の旅は宗教を眺める旅であったと回顧したわけであって、少しその辺に触れ始めようと思う。この日は電車の中で、ずっと遠藤周作の「沈黙」を読んでおり、この日の思考の焦点は・・キリスト教・・そして愛の形。

 

沈黙 Book 沈黙

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イエスの生涯 Book イエスの生涯

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別段に・・読書感想文を書こうというつもりではないので、僕がこの本を触媒として考えた事を簡単に述べようと思う。

僕の高校はカトリックのミッションスクールであった。その頃・・事あるごとに「愛」という言葉や概念に接っする機会をもった。そして「愛」とは痛 みを伴うものです。自己犠牲の上に成り立つものです・・という、やや高尚な説明を須らくされ・・若かりし自分には、何やら理解の遠かった記憶が残ってい る。

隣人愛という概念は、今の日本の世の中で俗に生きてしまうと接触する事が非常に難しく、ただでさえ無宗教である日本人にとっては騙しのようなものにしか聞こえてこない。

という事でよくとる手法として・・「好き」と、「愛する」という動詞の比較を試みるわけだ。

日本語の奥深さであろうと思うのだが、英語で言う「like」と「love」とは意味が全然違うように思う。渡米生活の中で特段のこの区別はつかなかったが・・

「好き」というのは・・その人がもつ絶対的な美的センスの反応であると、以前に記述した。

どういう事かというと、物でも人でもそうだが・・好きという感情が沸くのは、自分の「美的意識」から沸騰するものであり、何か恣意的な感情でどう するものでもないという事である。また美の持つ絶対性から言えば、相互間で感情共有が可能であったりもする。芸能人が多くのファンを抱えるのは、そんなと ころであろう。

美しい音楽、美しい絵画、美しい女性又は男性を見て・・好きという感情が脳細胞に忽然と姿を現すわけだ。これを「愛する」と表現するほど日本語は稚拙ではない(英語だと表現してしまうのである・・)。

大抵の人は、人の強さに対し、「美しさ」を感じるわけであって(逆もあるだろうが)、その事がきっと「好き」という直感に繋がるのであろう。サバンナの雌ライオンが、1頭の雄の王者にこぞって身を寄せる感覚・・そんな本能であろうか・・

わかりやすく恋愛に直結させて考えれば・・相手の良い部分しか見えていないうちは・・もう何が何でも「好き」である。悪いところは見ないという・・脳内ホルモンが分泌でもされているのではないだろうか。

そう考えると、「好き」という感情は遺伝子的な動物性本能に起因されているように思われる。


「愛する」というのは・・一己の独立した人間の持つ弱さへの格別超越した情なのである、と僕は記述した。

どういう事かというと、愛するという感覚は、魅力あるもの、美しいもの、綺麗なもの・・そんな誰もが(絶対的に)単純発掘するようなセンスに対応 する感覚ではありえない。一己の中において・・対象物への思慮により育て上げ、始めて生まれる感情であり、その対象物との間でのみ効力を発する、 相対的感情であるとも言えよう。

自分がAを愛する事とBがAを愛する事は交われない感情であろう。また、時間を重ねれば重ねた分だけ、愛の重みは増えていく。

西南戦争における増田宋太郎の気持ちを思い出す。

「吾、ここに来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」


愛という不可思議な感情は、美的感覚とは対立したところに光を感じるのではないだろうか。人の弱さに対し・・格別な愛情を見出したり、人が持つ不完全性を見事に補完しようとして存在しているようなものであろうと思う。

故に、人間が完全でないと知れば知るほどに・・愛なしでは生きていけないという事になろう。

 

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山陰本線での待ち時間・・電車に座っている時間・・有り余る時間が自分を有意義なものとする。本に目を落とし、景色に目を送り、上を見上げながら物思いに耽るといった具合で。


電車は・・鬱蒼と生い茂った草山を掻き分けるようにして進む。窓から顔を出そうものならば、伸びきった枝葉による平手打ちが待ち構えている。電車の窓にも・・ときどきペチペチとした音を立ててそれらは立ち向かってくる。

油断をしていると・・突如ゴォーという音を立てて真っ暗なトンネルに入り、心臓がビクンと反応させられる。トンネルを抜けると、大きな太陽を背にした日本海が姿を現す。小さな入り江が目の前に横たわり、その先には小さな島や岩山がぽつぽつと絵のように散在する。

首の向きを反対側の窓へと向ける・・すると山の麓まで田園が綺麗に並んでいる姿が目に映る。綺麗な稲穂が、首を少しばかりかもたれかけようとしており、秋の収穫が近い事を知らせている。

MISAの歌をイヤホン越しに聴いている・・ゆらりとした列車の旅、そして夕陽に映えるこの風景に・・彼女の歌声が強くマッチする事が、僕には不思議でならなかった。

さて・・人間は愛なしでは生きられないという単純明快な命題を考えている。


ここまで考えていると、愛するという感情は至極柔軟で、かつ便利な感覚であるなぁと気づかされる。愛という感情を育む事は、汗まみれになって畑を耕し、農作物を作って行くという所作に似ている。

生まれたての赤ちゃんには、まっさらな大地のみが与えられる。「一生をかけてその畑を耕しなさい」とその地に立たされるのである。

いろいろな野菜を育て、収穫をして、その喜びを味わいながら人生を積み重ねていく。余力を持てれば、耕作地を広げていく。人生の伴侶を養い、家族を養うためには、必要不可欠な畑・・それを耕さねばなるまい。


この時に・・肥料となるものが、実は人間の弱さであったり、人の欠けた部分ではないのだろうか・・そう書いてきたつもりである。

人に内在する不完全性を、暖かく汲み取っていく事のできる気持ち・・それを肥料として、人間が生きるためのエネルギーの源である野菜を作って行くという行動が、この愛するという動詞の本質にあるのではないかと空想する。


従って、人の不完全性を愛でる事ができずに過ごしていれば、この畑はどんどんと痩せこけていく事であろうと思う。大切であるはずの伴侶の不完全性 を汲み取れずにいれば、野菜の収穫も無くなっていく。友とする人の気持ちを不健康に嫌っているようでは、耕作面積を広げていく事などは到底できない。

自分の人生をふと反省してみると・・自分の耕している畑がいかに小さいか・・そのために人に対する嫌悪の感情が膨れ上がっていたという情けない過去に気づく。


キリスト教の教義とは・・この肥料を大切にし、神様のために畑を大きくしていこうと唱える事であるのだと思う。

尤も、宗教を実践する人々がそこまで考えているようにも思えなくもないが・・そこまで理解を進めてみると、「沈黙」という小説の最後の部分・・司祭が精神の苦悶にのた打ち回る状況下で踏み絵を踏みなさい!転びなさい!と問われる場面へと踏み込む事ができる。

・・・・・・・・・・・

踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間達と同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前達のそのいたさをと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから。

・・・・・・・・・・・

なるほど・・愛とは様々な形をするものであるなぁと思う。

長崎の件で書くつもりだが・・アウシュビッツで殉教したコルベ神父の愛というのが、また複雑な形をしている。愛が絶対的なものではないという証拠であろうと思う。その意味で、僕の解釈はキリスト教の教義信仰を否定せざる終えない。踏み絵を踏んだ司祭と同じように・・・

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都会育ちである僕にとって・・ワンマンの1両列車というのはものめずらしかった。また、それが自走式であって電気で動いていないというのも驚きであった。電車の出発と共に、独特の駆動音が自分の座る椅子を伝わって、車内に響き渡るのである。

萩から下関まで・・わずか100キロくらいであるはずだが、電車の乗り換えは2回を要し、3種類の自走式JR線に乗る事を強要された。そして単線であるから一つ一つの動作がのんびりとしている。どこぞの駅で長時間の連絡待ちなんてものも経験した。

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下関に着いたのはもう陽が沈みきってしまった時間であった。関門海峡が目の前に広がり、そこに鮮やかに橋が架かり、綺麗なライトアップを受けている。目の前はいよいよ九州となる。

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アウシュビッツへ(三)

Aus64 第一アウシュビッツを少し離れると、ポーランド国鉄用の線路群にぶつかる。この鉄道網を使用して、ほぼヨーロッパ全域からユダヤ人がこの地に運ばれてきた。そしてその支線は、アウシュビッツ・ビルケナウへと向かう(現在は途中の部分が無くなっているが)。その支線の先には、白い平原の上に一目でそれと気づく事のできる、所謂、死の門を臨む事ができる。これは、アウシュビッツの文献を開いてみたときに最もよく目にするであろう、鉄道引込み線の入り口にあたる門である。貨車によって各地から運ばれてきた囚人がこのビルケナウの門をくぐる時、この門を見て絶望し、自分の不幸を嘆き、自分達の死を覚悟するというところから、この名がつけられた。

Aus111 私はその門を遠くから眺め、そしてまた近くから気鬱な顔で、舐めるように眺めまわした。これが本当のアウシュビッツだという気の張り詰めた空気が頬を刺し、一息置いてから、60数年前の事を想像しつつ、その象徴的な門を通り中へと入っていった。門をくぐってみてまず驚かされたのは、その大きな敷地だった。立ち止まって眺めると、囚人が暮らしていたバラックらしき建物が右に左に広がっている。ただ、そのほとんどは破壊されている。聞かされていた通りで、これらはナチが退去する際に証拠隠滅のために爆破したのだという。しかしながらソ連軍の素早い侵攻があったために、そのうちの45棟は、ほぼ完全な形でその姿を今も残す事となっているわけである。

Aus114 中央の引込み線の左には掘りがあり、その脇にある舗装された真っ直ぐの道を私は歩いた。この道は何に通じているのかというと、4棟のガス室・焼却炉であった。その半分あたりのところで、とり残されたバラック群が広がっている様子を左手に見てとれたために、道なき雪道へと足の行き先を変えた。

Aus74 バラックはどれもこれも驚くべき状態で保存されている。沈鬱な状態をそのままに留ながら。雪に埋もれ、戸口の床は凍りついているような様相が、私をまた一層と暗然たる思いに引き込んでゆく。レンガつくりの冷たいその部屋の中には無数の3段のベットが設置され、暗いその部屋の奥からは、囚人達が今にもこちらに向かって力のない目線を注いでいるかのような雰囲気でもあった。このビルケナウに入って何度、深いため息をもらした事であろうか。ふ~っと息をつき呼吸を整え、眉間にしわを寄せながら、私は再び、色のない白銀の大地を歩き始める事にした。

Aus83 その後、何キロと歩いた事であろうか。破壊されたガス室・焼却炉跡を見て回り、国際慰霊碑の前で目を閉じ、ザウナと呼ばれる、囚人達がビルケナウ到着後にシャワーと着替えをした施設を通り抜け、そして、焼却されたユダヤ人たちの大量の灰が捨てられているという池のほとりまできて立ち尽くした。もう見慣れてしまった感もあるバラックの残骸を右に左に見て、なるべく雪の固まった部分を選びながら、とぼとぼとうつむき加減で私は歩きつづける。

Aus131_2 To the memory of the men, women and children who fell victim to the Nazi genocide. Here lie their ashes. May their souls rest in peace.

彼らの魂が安からに眠りますように。

ビルケナウを後にする前に、死の門の展望デッキへと登る。そこからは、広大な収容所の全体を一望に見渡す事ができた。親衛隊長官はここで貨車を出迎え、そして囚人達の様子をどのように眺めていたのだろうか。

空模様はというと、相変わらず沈んだ灰白色をしていた。であるからして、大地の雪も灰をかぶったかのような陰気な白さを帯びていた。ビルケナウに10万を収容していた当時、このデッキの真正面に臨むことのできる幾本もの煙突から、絶え間なく、人灰が天へと昇っていったそうである。この湿地帯は、そのためにいつも人の焼ける匂いで覆われていたそうだ。今となって、その匂いを感じる事はさすがにないのだが、あの日、天へと昇っていった人灰は、今日、静かな白化粧の涙となって、この大地を覆っているかのように私の目には映った。

訪問記としてはここらへんで終わりにしたいと思う。この筆舌に尽くしがたい情景と、また自らが抱いた感情というのを、自分の表現可能な言葉の限りにおいて書きとめたつもりである。しかしながら、全身の毛穴が一斉にちぢこまってしまうほどの展示物の数々、そして形容のしがたいその空気というのは、やはり身をもって体験しなければわからないようなものであり、当初の想像がいかに陳腐であったかというのを感じざるをえなかった。

博物館と称されるもので、これほどの類のものが世界に存在するであろうかと考えた時、私は思い浮かべる事ができない。町全体がそのままの雰囲気をそっと残している点で、このアウシュビッツは稀有であり、貴重である。改めて戦争というものが、人種の根絶に趣旨を置いているという事と知る体験であった。無抵抗の裸の人々と、無慈悲にそれらに対して銃口を向ける人々と、一体どんな差があるというのだろうか。あの釜で犬畜生同然に焼かれていった人間と、その死体から金歯を抜き取り金の延べ棒を作った人間と、どんな違いがあるのであろうか。そんなものは何もない。戦争が、人の悪なる感情を喚起して、人々を引き裂いたのだ。

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アウシュビッツへ(二)

バス停からしばらく歩くと、博物館の入り口が見えてくる。幾分かだが心拍数が自然と高まり、小走りになって建物に近づく。ヨーロッパにある博物館としては珍しく、ここは入館料を取らない。代わりとして300円程度の日本語のパンフレットを売店で購入する。館内奥にある扉を押し開け、冷たい外の空気をスーッと吸い込むと、静止画でしか見た事のない、有名な強制収容所の入り口と、2重に張り巡らされた有刺鉄線がここで目に飛び込んくる。

Img_2720 収容所正門に掲げられている「働けば自由になる」というドイツ語プレートの下をくぐり、私は強制収容所内に自分の足を一歩踏み入れた。囚人達はこの皮肉を真上に見上げながら、どのように感じて労働に出かけたのだろうか。フランクルは収容所で一切の感情を失ったといったふうに述懐していたが・・・。私のような者がこのプレートの下をこのようにくぐろうとは、当時のユダヤ囚人からしてみれば想像だにできなかった事だろう。そんな貴重な一歩を踏みしめているのだと、私は再び背を向けたばかりの門を振り返ったのである。

Img_2729 白い雪の絨毯の上に、レンガ造りの28棟の収容所が秩序よく建っている。どれもが茶褐色の無機質な建物であり、当時の面影が残っているその様相には、今にも自分がタイムスリップしたような気にさえさせられる。雪は幾分か小降りになり、しずしずと私の帽子を白に染めていた。その雪を振り払いながら、私は展示物のある建物群に身を進めた。これらの各収容所の建物の内にはたくさんの貴重な資料や写真が展示されているのである。

 

Img_2728

(撃たれる側と撃つ側にどれほどの人間の違いがあろうか!!人間の本性の恐ろしさである。)


 

Img_2731 搬送された人々の靴であったり鞄であったりといったものが部屋一面に山積みにされている。アウシュビッツ到着後に剃られてしまった、人々の髪の毛も館内にうず高く積み上げられ、その人間の毛から作ったであろう絨毯のような生地までもが見られる。こうした目の前の証拠の数々に、それを見る多くの人々が、口を真一文字に締めて息をのんで凝視をつづけている。その圧倒的な視覚情報によって、私の全身の毛穴は一斉に閉じてしまい、鳥肌が立っていることが目で見なくてもわかるほどであった。

これら28の収容所の中に1棟だけ、特殊な建物があった。それは死のブロックと名づけられた第11ブロックである。ここは収容所内の刑務所とも呼ばれ、あらゆる拷問がナチスの親衛隊によって遂行されていた。これに隣接する第10ブロックと11ブロックの中庭では、銃殺刑によって数千の人間が殺された。死ぬ間際に囚人は服を全て脱ぐ事を命じられ、その脱衣場が11ブロックの中央に見られる。とても冷たい一室だった。そしてその扉を開けると、そこには死刑執行がなされた死の壁を目の前に臨めるのである。

Img_2741 死の壁の前には訪れた多くの人々が集まっていた。私はその中から抜け出しその壁を手でそっと撫でる様に触る事で、当時の悲鳴や銃声を肌で受け止めたようとした。情も何もない死刑執行であったのだろう。その何もかもが無機質であった証拠に、殺された囚人は、また別の囚人達の手によって、鉛玉が脳天を突き抜けた後、すぐさま機械的に感情もなくその場から運ばれていったのだという。

Img_2740 気がつけば、このアウシュビッツを既に数時間は歩いている。この後ビルケナウ(第二アウシュビッツ)にも向かう予定であったので、私は歩を進めるのを早めて、最後の展示であったガス室と焼却炉の方へと向かった。収容所の周りを張り巡らしている有刺鉄線には当時、高電圧がかけられていて、多くの囚人がその生活に耐えられず、鉄条網に体当たりで自殺を図ったといわれる。それらをくぐり、足場の悪い泥濘を越えて、煙突が空に一つ突き出ている建物へと私は入っていった。

犠牲者たちはまずガス室に続く地下の大きい脱衣室へと導かれた。この部屋にはベンチと衣類掛けが取り付けられてあり、囚人達は通訳の口を通じてこれから入浴して消毒されるのだということ、そして自分の衣類を掛けたところを覚えて置くようにと申し渡された。ここから彼らは次の部屋へ導かれたが、そこには通訳の言葉を裏書するようにシャワーが取り付けてあった。(夜と霧より)

Img_2745 暗く澱んだ室内に足を入れ右に折れると、10畳ほどのスペースのストレージがあり、さらに縦に長いガス室が広がっていた。壁は生気のない汚れた石でできており、中央へ進むと隣の部屋に4台の焼却炉が目に移る。なるほどここがガス室に違いないとこの時に気づくのである。おびただしいユダヤ人が有毒ガスを吸ってここに横たわった。そして矢継ぎ早に隣の焼却炉に運ばれて灰と脂になっていく過程が目の前の光景に重ねられる。死体からは金歯や指輪が抜き取られる他、あらゆる動作に情感は無かったのであろう。

衣類を脱がせられた囚人達は、警備の指図で一回に250人くらいずつ部屋に連れ込まれた。扉には錠が下され、それから、一、二缶の「チクロンB」が壁に特殊に作られた隙間から注ぎ込まれた。「チクロンB」ガスはこのような目的のために用いられるものであり、生産の天然の化合物を含んでいるものなのだ。犠牲者を殺すに要する時間は天候によって異なるが、十分以上かかることは稀であった。(夜と霧より)

私はこの焼却炉の中が気になり首を伸ばして覗かせてみたのだが、これだけみると何の変哲もない竃に変わりはない。死体を焼くための焼却炉は火葬場に行けば今でも出くわせるであろうが、この目の前にある焼却炉は、時に生きたままの人間も焼いた代物である点、ある意味において格が違った。焼却炉に直結する形で滑車付の台が置いてあり、その上におそらく人間を乗せて勢いよく炉に放り込んだのであろうか。その背後に回ると、灰を取り出すための扉があり、その前の床は少し掘られている。

この部屋から外に出る頃には雪も降り飽きたように止んでいた。相変わらず雲は厚く、肌を突き刺すような寒さであったのだが、この時、人間的な苦痛の感情に対して、私自身がどうも鈍感になっていたようである。靴とジーンズが雪に濡れて重くなっていたのであるが、昼もだいぶ過ぎていたために、腰をおろして休む間もなく3キロほど離れたビルケナウに急ぎ向かう事にした。(続く)

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アウシュビッツへ(一)

フランクルの「夜と霧」を再び読み返している。鮮烈なその描写は・・以前は単なる文字列がなんとも脳のプールにただ漂うようであったのだが・・同じ文字列が今となってみると、センテンス一つ飲み込むごとに、背筋を震わせるような緊張感を私に感じさせる。またいくつもの写像が、同時に目の前を駆け回る風である。

私は外の雪景色を黙々と眺めていた。つなぎ目の悪いレールの上を、雪と、ポーランドの冷たい空気を切り裂きながら、列車はゴトゴトと音をたてて進んいる。サスペンションが明らかに劣化していると思われるその車両は、ときおり上下に激しく揺れる。ふと斜向かいの席に目をやると、地元の中年カップルが、熱いキスをかわしている。同時に、暖房の効きすぎた車内が私の頬を赤らめさせており、どうも外の殺風景とは温感に釣り合いがとれない事があって妙な戸惑いを覚えていた。

Img_2713

背の低い山並が(正確に言えば丘陵)、先ほどから私の視線とずっと交錯を続けている。その合間を縫うようにして、このローカル線はどうやら進んでいるようだった。傾斜の緩い山肌に、家がぽつりぽつりと現れては消えていく。雪の下には、畑であろうと思われる不恰好に整地された土地が散在している・・その一方で、ほとんどは手のつけられていない荒地が広がり、草木が深い雪に埋もれながらにして無造作に顔を覗かせている。この風景は、昔から変わっていないのであろうか・・そんな思案をする。

第二次大戦中、ヨーロッパ中の多くのユダヤ人が、劣悪な貨車にギュウギュウと詰め込まれ、私が今進んでいる線上を走っていたのだと想像する。どこに連れて行かれるのかわからず、何日も何日も列車は走りつづけ、不安に押しつぶされそうになりながら・・・。貨車の小さな窓から、これと同じ景色を彼らはどんな気持ちで覗いていたのだろうか。この悲壮に満ち溢れたような景色が、私の脳裏へと、巨大な感情量を付随させて送り込まれていく。

反対側の景色を見ようと首をまわしてみると、やはり広い荒地が奥まで続いていた。視線を戻そうとすると・・斜向かいの中年カップルが、座る位置を変えてキスを続けている様子が目に入る。私が気にしすぎなのかもしれないが、ポーランドカップルのキスをいたるところで見かけ、何故だかそれぞれが印象深く残った。風景にやたらと溶け込んでいる感じがあり、穏やかで甘ったるい空気を放ちながらも・・どれもこれも華やかさとは程遠いものであった。それが、旧共産圏の名残りだという自分の先入観なのかどうかはわからない。

再び直近の車窓から左手を顎におしつけ外を眺める。貧弱な電柱が、孤独で寂しげに、列車と平行に走っていた。今にも折れてしまいそうな電柱は、たった3本の電線のみをだらりと這わせている。時折登場する石造りの家々は、配色が薄暗く、どれも地味で、また必ず煙突が空に突き出ていた。

気づくと電車に乗ってから1時間が経過している。目的の駅が近づいているようで、カップルはとっくにキスをやめ、周りの人々は慌しく荷物を荷だなかなら降ろしている。私は帽子を深くかぶり、ジャケットに袖を通した。

その日は朝からの雪であった。昨晩の宿泊地であった、クラクフという南ポーランドの都市は、ワルシャワに遷都する前のポーランドの首都であった大きな町である。この地に入った目的は、ナチスドイツ軍の強制収容所であったアウシュビッツを訪れるためである。ホテルで朝食をとった後、急ぎ、9時5分のローカル線に乗ってオシフィエンチムという小さな町へと私は向かったのである。その小さな町に、あの巨大殺戮工場であるアウシュビッツが姿を残しているというので。

この地は霧の多い泥炭地であり、池や沼が多いために湿気で満ちている。ポーランドがドイツ軍に占領されるまでは、ここはポーランド軍の軍事基地があり、周囲の町からは隔離された状態であった事と、ヨーロッパ各地との交通の便が良かった事などから、ナチスによる強制収容所設立命令が下されたと言われている。この凄惨な歴史事実を残しておくために、現在これらの施設は、国立オシフィエンチム博物館(アウシュビッツ・ビルケナウ)として保存、一般公開されている。

当初、ポーランド軍の軍施設を改良した28棟程度の建物群であったアウシュビッツであったが、収容人数を増やしていったために、3キロほど離れた場所に第二アウシュビッツ、別名ビルケナウが囚人達の手によって建築される事となる。ここには300棟以上のバラックが建てられ、そのうちの数十棟が現在も全くそのままの状態で置かれている。

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オシフィエンチムの駅舎を降りると、雪の降りが激しくなっており、冷たい横風が頬を吹きつけ私の肌の血色をよくしていた。世界的に有名な博物館があるというのに、そのバスターミナル周辺は驚くほどに簡素であり、人の姿もまばらであった。またどこを見渡しても、博物館への案内はなく、本当にこの駅にあるのだろうかという不安にも駆られる。駅のインフォメーションに行くと、ポーランド語で乗るべきバスを教えられた。なんとかそれを理解し、キオスクでバスのチケットを入手して、私はバスが来るのを待った。

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やってきたバスに乗り込み、数キロ進んだところで運転手に降りるように促された。しかしながら、降りてみてもやはりそこには案内等はなく、私は他の旅行者と思われる人たちの後ろを仕方なく疑い混じりに追って歩く事にした。現地の人なのか・・こっちだこっちだと怪しくも柵の中の方を指をさしているわけだが、頼るものが他にない私にとっては、その指示を信じるより選択がなかったのである。こうした当惑振りと陰鬱な周囲の空気と静けさは・・私がこれから衝撃的な展示を目撃し胸をつまらせる事を、まるで暗示するかのようであった。

既に雪を踏みつけ過ぎて、その中に埋もれ始めていた私の靴は、靴下までもを濡らし始め、つま先が徐々に冷え始めている。ただそんな事が気にもならないようであるのは、張り詰めたここの空気に気おされたからであり、私は地を噛み締めるように柵を払いのけて歩くのであった。囚人達がこの周辺を行進したことを心に描きながら。 (続く)

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