母国語で考える

藤原正彦著の「祖国とは国語」を読んでみた。タイトルは、フランスのシオランという人間が残した言葉であるらしいが、まぁまさにその通りである気がする。

祖国とは国語 Book 祖国とは国語

著者:藤原 正彦
販売元:新潮社
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読んで最初の感想はというと、数学者というのは暇なんだなぁと改めて。嫌味を言っているわけではなく(笑)、こういう人生って素敵なのでは?と考えるのである。理論的な学問をやっている人間に共通する事は、膨大にある自由な時間なのではないだろうか。著者のような、あらゆる知識に長けて、そして多くの執筆活動ができるという事実に、理論学者という職柄の素晴らしさと知性の一面を感じる。生まれ変わるならばと考えると、そういう生き方にも興味を持つ。

さて本題に入ろう。著者が主張している、国語教育の充実とは、優れた思考を生み出すための道具を養いなさいという事のようで、今日のタイトルを「母国語で考える」としてみた。

国語があらゆる知的活動の原点だという事は、前々から私自身も感じていたが、国語が情緒を育み、まるごと文化になるというところの考えまでには、気づかなかったし今まで考えられなかった。確かに、国語は、民族の歴史のようなものである。考えようによっては遺伝子のようなものかもしれない。日本人が脈々と培ってきた情緒というものが、国語表現には染み込んでいるのだ。悲しむ事、感動する事、愛する事、その一つ一つに日本人としての誇りと、慈しみが包含されている。

英語など勉強するな、国語を勉強しろ!というのは、確かに暴言のようにも聞こえかねないが、豊かな思考を持つ人間を育てるためには、母国語が極めて大切だという事に納得せざるおえない。昨今の、国語教育の時間削減、ゆとり教育の弊害、そして若者のメール文化などは、日本が滅びる序曲のように感じられる。

国語教育とは何であろうか?人が思考をするために必要な、言語蓄積、即ち自分の持っている丼の器を、どのくらいの大きさにするかという事ではないかとイメージしてみる。どんなに天才な数学者でも、足し算や引き算という蓄積なくして、微分積分を理解する事はできないだろう。そもそも、数字という道具が無ければ、足し算や引き算もできないのである。動物が遺伝子に書き込まれた本能以外に思考的行動がとれないのは、言葉を持たないからである。それを考えたときに、初等教育での国語の徹底というのは、日本民族にとっての重大の意味を与える。小学生に英語を教えるというのは、日本の文化の破壊だというのは、そういう意味なのだろう。

私自身が強烈に感じるのは、メールが及ぼす害悪である。メールというのは活字による表現ではあるが、基本的に口語表現である。即ち、文章構築という作業を無視している。これは若者の論理構築を、決定的に阻害しているはずだ。また、漢字離れの急速化を助長しているとも言えるだろう。著者も話しているが、漢字は大切である。漢字には思考や、情緒が詰まっている。無機質な英語のアルファベットには無い、素養が漢字にはあるのだ。

言葉の大切さは、知らないうちには気づかない。言葉を一つ知るという事は、一つ栄養を体に取り込むようなものである。難しい言葉を、ゆとり教育などといって平易に直す必要は無いのである。優しい言葉だけを使って表現するという事は、思考の二度手間と損失であり、またその言葉の持つ情緒性を失いかねないわけである。一つの熟語は、先人の思考と情緒が付随して生まれたのである。だからこそ、正しい言葉を身につける事には意味があるし、正しい言葉を表現する事に誇りを持つべきなのである。コミュニケーションのため、即ち人への伝達のためばかりを気を捉われていると、この国語の持つ重大な意図を見失いかねないという事である。

この本は非常にコンパクトなので、あっという間に読めてしまう。是非とも、世の中の教育者には読んでいただきたいと感じる。子供を持つ親にとっては、言葉の重要性を再認識するための教科書となるかもしれない。

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生きるという事

フランクルつながりという事で、「夜と霧」に続き、「それでも人生にイエスと言う」を読んでいる。まだ3分の1というところだが、感じた部分を記述しておきたい。

読み始めての最初の感想であるが・・この本は非常に難しい本だ。何気なく読んで理解できるようなものではない。それは言葉が難しいという意味ではない。

フランクルがいとも容易く述べるすらすらとした表現の数々は、ガムを噛むように読み直し、想像世界にそれらを投影してみなければわからないものであるのだ。それほどに深い意味を内在している。宗教家の言ではないところに、私としてはその表現の思考の奥深さを感じている。一人の人間の生への達観した姿であり、貴重な思想の数々が盛り込まれている。

それでも人生にイエスと言う Book それでも人生にイエスと言う

著者:V.E. フランクル
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読んだ部分のメモを例のようにリンクしておく。

我々が生きる上で直面しなければならない大きな課題の一つが、生きる意義であろう。それをフランクルは滔々説くのである。私自身が20歳の頃よく公言していた生き方というのが「人生は笑うためにある」といったものであった。笑うという事が人間にとっての至福であると考えていた私は、その笑が生まれるような生き方をしたいと思っていた。努力一つがあるならば、その理由は笑いに従属するのであろうと。ところがフランクルはこう一蹴する。

人間は楽しみのために生きているのではない。

しあわせは目標ではなく、結果にすぎない。

簡単には飲み込めない言葉である。ただ、一つ一つを丁寧に飲み込んでいくと、意図が見えてくる。フランクルは、「楽しみのために生きるのは割があわない」と言う。そもそも人生には楽しみよりも多くの苦痛が待ち受けている。それの差し引きをした時に、マイナスになるようでは人生に価値が与えられなくなってしまう。

また、幸せを追い求める事が、結果的な幸せに繋がるかどうかは誰にもわからない。高学歴を得て、寝る間も惜しんで仕事をし、その結果、大金を稼ぎだすというような、誰もが羨ましがるようなストーリーが果たして幸せかどうかはわからないのである。結局、幸せはその人が判断する、即ちその人の心が決める事なのであろうから。

ならば、苦痛を人生の糧にして、心のあり方を高貴にすることの方が、よっぽど幸せへの近道ではないだろうかという事か。

最後にフランクルは生きる意味と価値についてこうまとめる。

生きるとは、問われている事、答えること。

自分自身の人生に責任を持つことである。

確かに近い理解を私自身も持っている。人生というのは、「私」という名のタイトルを持つ、舞台であると。少々精神的な言い回しをしてしまえば、我々の魂は、「私」という体を借りて、この世に限りある時間だけの“生”を与えられているのではないか。

だから、我々はその舞台において、有限な行為を自分の責任の下になすのである。勿論、日常をそう思い過ごすのは難しい。ではあるが、ふと生を達観して見ようとした時、私は不思議とそういう気分に浸ることがある。

自分が、人生という舞台上で与えられる役割、期待されている価値観に非常な興味を抱く。人に与えられているのは、生という舞台だけであり、脚本などは存在しない。だのに、その存在もしない脚本家に対し我々は何かを期待しようとして生きようとする。

この意味で私はあまり好きでない言葉がある。「努力は報われる」という言葉である。私の知人がよくその言葉を使う。そして、私が努力をしている事を知ると、昔から口癖のように言うのが、「君は報われなければならない」のだよと。だから、そんなにいつまでも人生に向かっていくな、と諭すわけである。

だが、これは私の考え方に一致しない。世の中には努力しても報われない事が星の数ほど存在するからだ。人生に期待するという事は大きな勇気を自分に与える事かもしれない。しかし、努力が報われるかどうかを信じるという事は、病魔に冒された体にモルヒネ注射を自分に打つかのように、本質的でない文句でもあるのだ。

これは、実際に私自身の努力の経験でもあるが、努力をしたところで、何一つ報われなかったという事がたくさんある。

自分以外の誰もが私という人間の存在を知らぬ環境において、自分の努力の形をこの世の誰一人もが認知してくれない時、その努力が私自身の精神的世界でのみにおいて活躍を続けているような時、もし、私がその謡い文句を信じていたならば、それを裏切られるたびに私は失望し、その後の労苦に立ち向かう事はできなかったろうと思う。

努力が甘美的でありえるのは、未来に対する余裕なのである。後ろが崖であったり、背水の陣を敷いた劉邦配下の韓信のような限界状況において、更なる努力に、自分の未来を委ねる事など出来やしないわけである。どちらかと言えば、努力を今しないでどうするのさ?という問いかけの方が私の心には親しい。

モルヒネ注射は永遠に有効的なものではなく、その場限りの“しのぎ”の甘い言葉でしかない。そして、世の中というカオス的真理に対し、努力の美的性格でのみ立ち振る舞おうとしても、人が持っている本質がもやしのようであれば、何も役に立たないのであろう。

というのも、こうした生の意義を深く悩み、命を絶つ人がわが国には年間3万人もいる。そしてその予備軍が、100万人近くにのぼると言われる社会が我々の目の前に存在する。生の形、努力の形、幸せの形は、十人十色である。その自分の形を築けるのかどうかは、今や社会の命題でもあるのだ。その点において、このフランクルの言葉の数々は、生への叡智に繋がるのではないかと私は思うのである。

確かに、フランクルの学術的表現は、凡人にとって痛みだけの人生の真理であるかもしれない。だが、彼はその現実の痛さを直視することが、人間がかかってしまう病魔を取り除く真のアプローチだと言いたいはずだ。人間という奇跡の生命体が、その奇跡の輝きを発揮するためにも、我々が人生からの問いに答えていく行為はとても大きな意味を放つのだ。

最後に本文とはずれるのであるが、強者がいて弱者がいるという事を私は伝えたい。

自然というのは、人間にも不完全という数々のパラメーターを与えるものである。その中で、相対的強者が生まれるのは、相対的弱者の存在によって裏付けられる。金持ちは貧乏人によって裏付けられる。であるからして、競争によって個々の能力を煽り、その結果だとして与えるられるものを、人のキャラクタりティーとして極端に差別する昨今の世の中は、個人の生への意義や問いかけを社会自体が弱体化を手助けしているように感じる。

人生が期待する私でも述べたような、弱者の弱者性に幸福感を見出すような生のあり方を、私は多くの人に拭って欲しいと願う。目立たないところに存在している弱者に、どうか温かい声と温かい目を届けて欲しいと思う。難しい顔をしている人には笑顔を届け、悲しい顔をしている人には、一欠けらの優しさを。

日々を苦しんで過ごす意義への格闘家に対し、それは、自然なる他者から与えられるその人の新たな意義を創造する事となるであるから。まだこのブログにはエントリにはない内容ではあるが、国家が税制をもって、政治政策をもって、法律をもって、弱者を締め付けるような事があれば、どうかそれに抗していただきたいと思う。それが、結果的には自分の人生に生の価値を与えるのだろうし、今の社会システムが健全復帰する原動力への貢献になるはずであるからだ。そして、私はそれを願い、小さくとも、自分の人生の舞台へと描いて生きたいと考える。

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人生が期待する私

幼少の頃に読んだきりであった本を読み返す。成人し、その強烈な叡智に --“われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われたものとして体験される”--、一節からだけだがめぐり合う機会があり、それを自分自身にすらも刻んで生きていこうと気づいた時があった。時間があるうちにと、もう一度「夜と霧」という、心の巨人とも言ってもよいフランクル著の本を手にとり読んでみる事にした。

夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録 Book 夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録

著者:霜山 徳爾,V.E.フランクル
販売元:みすず書房
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いくつか個人的にメモ をしているのでフランクルの記述を紹介する。

強制収容所という特殊環境下での心理学者の学問的見地というのは、もちろん貴重であるのはさることながら、こうした述懐を本人の極限的状況下で冷静に分析しているという学者精神に、研究者という自分の立場からしても敬意を覚える。


人間という社会動物は、周りへの環境適応能力に凄まじいものを発揮すると常々私は考えている。現在の状況で云えば、日本と中国の人々の生活水準は違うし、アフリカの人々とも違うわけで、また、世界各地で起きている民族紛争下に息をこらして生きている人々のそれとも違うのだが、そのレベルに合わせた幸と不幸が存在しているという事なのである。

クリスマスになり、周りを見渡した時に自分が一人である事に怯え、テレビを見ながらお菓子を貪っては街に溢れるカップルを羨ましがるような人がいれば、一方の世界で、一片のパン切れを手にして喜び満ち溢れ、神に感謝する人もいるのである。だから前者は情けないという話ではなく、その社会の中でしか自分たちの持っている幸せに、残念ながら人間である限り気づく事ができない。もう少し云うと、幸せや人の感情に学術的な普遍性はないのである。

この夜と霧の本にも近い件がある。あれだけ強制収容所の圧迫を受け、生を諦めなかった人々が、開放され生まれ故郷に戻った時に、とある絶望の淵に陥るのである。結局人間は物質的豊かさに心をよりどころとする事はできないのである。最愛の人がいれば、その を思い浮かべるだけで、人にとっての浄福が訪れるのである。そしてそれに気づける事に幸せを感じうる事ができるし、生への諦めに抗する事ができる。この物質的豊富な現代の日本人が年間3万人を超える自殺者を出している事実と比べると、いかに精神的な豊かさが大切かという事を知るはずだ。

このプログのサブタイトルを無知の幸せとしたのだが、これにも似たような想いを持っている。例えばこんなことである。もし、タイムマシーンがこの世に存在し、自分の未来を覗く事ができるとしたらそれは幸せなことであろうか?勿論、物理学者の端くれとして、このタイムマシーンには知的興味と夢を抱くのであるが、これが人の心を豊かにするのであろうか?と考えれば、これはおそらく否である。

もし、未来を覗いた時に、素敵な将来が待ち受けていたとしたらどうだろう?この場合、どんな事をしていても素敵な将来を得られるわけで、苦い努力を惜しむ事に疎くなるであろう。

もし、未来を覗いて平凡な将来や、醜い将来を見てしまったらどうであろう?この場合、あらゆる労力に無駄を感じてしまうであろう。どんな人生設計もが無駄になるのではないか。

われわれには知らないからこその幸せがある。知らないからこその希望があるのである。他人の気持ちが手に取るようにわかってしまったら…、それは既にプログラムされたロボットのようでしかない。

人間誰しもが醜い部分を昇華できないわけであり、それを補うための演技もなすすべなく、人を傷つけあってしまうであろう。相手の悲しみが自分の痛みのようにわかってしまったならば、その度に心労を受け、その度に時間を浪費し、疲れ果てなければならない。社会の裏側を知ったらどうだろうか?それは幸せであろうか?違うのである。われわれは知る事ができないからこその幸せというか、生があるのであり、その幸せに気づくためにも今日の知的欲求があるのであり、知ることを止めずに、果敢にそれに挑戦するのであろうと思う。そして知ることからの痛みが、人に高貴な涙を流させるのである。

現代にはたくさんの精神的、肉体的障害者がいる。そういう人達を知る事というのは、健全者から見れば無駄な労力のように映る。また、それをネガティブと捉える傾向がある。自分が容量豊かでなければ、その人達の不幸や労力を受け止めるだけの自分がないのである。

誰しも自分が恵まれていると考えるよりは、自分が不幸だと思う方が、どちらかと言えば弱い自分には優しいものである。であれば、不幸だと感じている自分よりもさらにさらに弱い人々に対して、受け止めるような愛情を発揮したり、その不幸に涙することなんていうのは容易くないのである。また不幸な人をあざ笑うことで、自分を救おうとしたりもする。人の不幸は蜜の味などと評するが、これは残念ながら人の持つ本質の一つにも違いない。

そんなある見方をした時に、この世の中には一種類の人間しかいなくなる。物質的にどれだけ素晴らしいものを人が持っていようが、実は…と物足りなさを感じていることを暴露したりするのである。誰もが羨むキャリアウーマンという人が、どれだけお金を稼ぎ素敵な暮らしをしたところで、負け犬と呼ばれる事に鋭敏になり、温かな家族を持てない事にコンプレックスを抱くのは普通の感情である。そして普通の人は、普通である事にため息をつき、恵まれないと感じている人は、恵まれないとぼやくのである。つまり社会動物となった人間は、常に精神的弱者の側面を、自分の知る周りの環境に逐一反応しながら、持つものなのである。

そう生きていると、このフランクルの云うところの“人生からの期待”には気づけないであろう。「良い事ないかな~」とか「幸せがおっこっていないかな~」と考えるのは、人生に対する期待を自分がしていることになる。しかしそれでは生きる意味や目的を、肝心なところで失ってしまうのである。順風満帆に生きていればそう想う必要性も感じられないのだろうが、どこか大人の入り口のようなところで人間は“生の意味”を自分の内側に問いかけようとするはずである。また与え続けられているだけの人生であったり、学生のような自己生産を頭から拒否しているような身分であれば、自分が頭からこのような事象に突っ込んでいかない限り、そもそも知る由もなかったりする。稀に、半社会人がこのような迷宮に彷徨いだすと、ニートなどと呼ばれる代物が生まれるのである。

その時に、自分がどう素直に生きるかというよりも、自分が何を期待されているかに気づけるかがフランクルの云うところの鍵である。よく言う、「自分らしく生きる」という台詞を自分の内側から眺めるのか、社会や最愛の人達から眺める事を意識するかの違いは、非常に大きいものなのであろう。高校時代の校訓である「人のための人であれ」というグスタフフォス先生の言葉は、この心意に極めて近い気がする。受動的な生を見つめるところに、真なる能動的な生があるのではないだろうか。つまり生の真意はどうにも不確実なものであり、見渡す限りの野原に一輪の花を見つけるようなものなのだ。その花は太陽のご加護、天の雨の恵みなくして美しくは育たないのである。

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始めの一歩

心機一転、ブログを書くことにしました。

内容は、政治、経済、国際、社会、時事、歴史等、自分の興味にあった範囲で、書いていこうと思います。至らないところがあればどうぞ宜しくお願いします。人に読んでもらうというよりも、自分の頭の中を整理するという気持ちで、また公開するに当たり言葉や情報には気を使いながら書いていこうと思います。

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