集団的自衛権

もう10年も前になろうか。鹿児島の知覧にある特攻平和会館を訪れた事がある。陰鬱な気持ちになると共に、何故こんな事になったのだろうかという、どうにも理屈では到達できない過去の事実に閉口せざるを得なかったことを記憶している。

集団的自衛権によって戦争の危険を回避できると考える人は、知覧に行き、そこで何が起こったか、そして何故こんな事になったのか、論理的な説明がつくのかどうかと考えてみて欲しい。同じ戦闘で死ぬにしても、こんなにも理解不能な死に方があるのだろうかと。

だがそんな事は筋道をたてて論じようとしても難しい。納得できる説明など聞いた事がない。誰が日本という国を戦争に向かわせたのか、何のためかすら誰もわからない。おそらく国際連盟を脱退する時も、まさか日本がアメリカと戦争をするなんて当時誰も思わなかったに違いない。しかし、そこから10年経って日本はアメリカと戦争を始めるのである。圧倒的な国力差、戦力差を知りながらである。結局、戦後処理においても、日本は誰かが戦争の責任を取るということはしなかった。他国の人々を殺した事は平和への罪とかで裁かれたものの、肝心の日本国民350万人を殺したことについて、誰も責任をとっていない。

日本人というのは、迎合の民であると思う。それはデモクラシーを自ら勝ち取らなかったアジア諸国全般に云える事かもしれない。つい何年か前まで、韓流なんていって、メディアは韓国の芸能・文化を垂れ流し、それに釣られ、多くの国民は良き隣人として韓国に親しみを抱いていた。ところが、韓国大統領が日本の天皇に謝罪要求を突きつけると、手のひらを返したように反韓国の狼煙にのっかたのである。天皇陛下が未だに、ナショナリズムの吸着剤としてこうやって機能するとは、ぞっとするような出来事である。

先の大戦を振り返ったとき、どこがターニングポイントだったのかというと難しいところではあるが、最初のターニングポイントはリットン調査団の持ち帰った結果に反発し、国際連盟を脱退する辺りであろう。怪しげな世論は、その選択を賞賛したわけである。だがしかし、その行為の意味をどれほどの国民が理解し、未来を予測したのであろうか。誰も止められぬ、逆戻りできない坂道を転げ落ちたのである。

太平洋戦争への道については、以前記述した(太平洋戦争とは )通りである。客観的に考えて、太平洋戦争にアメリカの正義なんてものは存在しなかった。野蛮な国である日本を倒すなんていうのは、全くの嘘である。他方、日本に正義があったかといえば、それほど素敵でもなかろうが、一応の建前はあったようだ。しかし、負けてしまえば正義なんてものは糞味噌である。正義があろうがなかろうが、350万人は圧倒的な力量の差があった米兵を前に無益に死んでいったのだ。正義で戦争を勝てるはずがない。戦争とはそんなものであり、人間は有史以来、そのような戦争を何千年も続けている愚かな生き物である。日本人も例外に漏れずにだ。

これらが正しいのであれば、私は日本の今の憲法に大いなる矛盾を感じる。日本に自衛隊が存在しなければならない事自体、矛盾なのである。人間は愚かにも争いを好み、一度戦闘を始めれば収集のつかない事態にまで発展する。個々人が積み重ねて来たあらゆる物を、暴力によって破壊する行為である。

さて、何故集団的自衛権が問題であるか、である。結論から先に云えば、日本という国はアジアをリードする為にも、立憲主義国家であるべきということだ。憲法というのは、国民を権力から守る為に存在している。立憲主義国家では、憲法を国の最高法規とし、権力が暴走しないよう、司法に最高法規の番人をさせる。従って、立法府が憲法に違反するような法律を作った場合は、司法は違憲立法審査権を使って法律を無効にさせることもできるし、また行政が憲法を無視した行いをするのであれば、それを正すこともできる。

ところが今の日本は、三権分立とはとても云えない状況にある。司法は、政治と関わる事を放棄し、立法は衆参両議員が安倍晋三を党首とする与党によって過半が占められており、行政は安倍晋三の力が強く誰も逆らおうとしない。つまり、立憲主義の原則が脆くも崩れ去り、その中で議論もされずに集団的自衛権を行政府が解釈している。本来的に憲法解釈を行政がする事はできない。それは、最高裁判所にしかできないのである。

アメリカではこんな事は絶対に起きない。大統領の権限は非常に限られており、行政よりも立法府と司法府が強い権力を持っている。アメリカの司法は強力であり、大統領にも議会にも使命をもって真っ向から立ち向かう。アメリカではデュープロセスが大切にされる。正当なプロセスを経ない決定事項は全て無効である。デモクラシーとは、唯一の権力によって国を動かさず、全員参加型の議論によってそれを尽くし、最後に多数決をとるというやり方である。このため、間違った判断をしたとしても、責任の所在がどこにあるかよくわかる仕組みになっている。

一方の日本はどうであろう。自由民主党というのはデモクラシーを標榜とした政党であろうと思うのだが、全くもってデモクラシーの原則は守られていない。そもそも、日本人自体が政治を遠ざけているため、全員参加型の政治議論をとかく敬遠する。日本人にとって政治とは、政治家という職業の「仕事」だと思っていて、自分たちの役割はないと考えている。それが選挙の投票率にも如実に表れる。投票にいかない人々は、投票しても政治は変わらないという。そして、国が変わらない、問題を起こすような決定について、全て職業政治家の責任にする。集団的自衛権の問題も、国民のナショナリズムさえ煽れば議論をせずとも何とかなると権力者に思わせているのは、基本的には政治への不参加、議論への不参加を日本人が決めてしまっているところに大きな問題がある。

こうした日本人の政治に体する姿勢は今に始まった事ではない。明治維新以前からずっと、日本人は政治に関心を示さない民族であった。つまり、お上に従属的な人種と云える。先の大戦のときもそうだった。誰が何を決めたか知らず、誰もが知らぬ間に、日本は戦争への道を歩んでいた。自分たちで道を選択したのではなく、気がつけば、その道を歩かされていたのである。何故、こんな事が起きるかと云えば、クールな議論をせずにナショナリズムに身を任せるからである。ナショナリズムに身を任せると、相手を見失う。巨大なベクトルが内側に出来る為、自分自身もがその磁力によって雁字搦めにされるのである。冷静になって誰かが止めようにも、理屈では止まらない。

先の大戦にあっても、きちんとした議論ができていれば馬鹿げた戦争を回避したはずだ。その意味において、戦争を回避する最高の手段と云うのは情報開示とクールな議論である。五分五分の戦争なんて誰もやらないし、ましてや十に一つも勝ち目のない戦争を、ナショナリズムと云うエゴイズムを正当化する為にすべきでない事は誰にだってわかるはずのことなのだ。泥沼のベトナム戦争を経験し、冷静な議論をするはずのアメリカでさえ、どうしようもないイラク戦争を始めてしまった。冷静な議論ができず、ナショナリズムに沸く日本が、今後どうやって戦争を回避すると云うのだろうか。

集団的自衛権の成立過程を見ていると、まさに、このナショナリズムに身を任せた、プロセスを無視した仕業に映る。所詮解釈に過ぎず、これを認めれば、時の政権が時の空気に身を任せ、権力を行使する事に他ならない。こんな日本であるから、憲法という最高法規が重要なのであろう。戦争を放棄すると云う日本国憲法は、戦争回避する為の唯一の守りなのである。この憲法を蔑ろにする日本は、デモクラシーが未だ根付かない二等国家なのだろう。

自衛隊は憲法違反ではないかという人がいる。その通りである。だから、自衛隊が必要なのであれば、自衛権だけは認めるよう憲法を変えなければいけない。何故、その事からずっと逃げているのか私にはわからない。最高裁は、自衛隊が憲法違反である事を放置してしまった。つまり、こうした高度な政治には口出ししない姿勢を過去に作ってしまった。これを逆手にとって、安倍政権は集団的自衛権の閣議決定という暴挙に出た。この憲法解釈の違憲性を争うと、そもそも自衛隊が憲法に違反するという結論になってしまい、今更そんな事を言って自衛隊を解散させる事なんて出来ないからである。

日本はどんな国になりたいのだろうか。安倍晋三は、日本は普通の国になるんですと云う。日本は普通の国になりたいのであろうか?自分たちがどんな国になるべきかの議論が全く抜け、結論から入るからこの国はおかしい。原発の問題も同じである。日本人として問題を解決しようと云う姿勢が全くないことが、この国の致命的な欠陥である。これでは再び戦争に負けかねない。誰かが、何の権限も持たず、ひっそりと国の方針が決まっていくのであるから。私は、そんな国になってもらいたくない。もっと理性的にアジアをリードする国になって欲しい。間違ってもナショナリズムに身を任せる国であって欲しくない。それが、先の戦争から学ぶと云う事であろう。その結果として、平和な国であってほしい。単に与えられたような、何も考えない平和はいらないと思う。軍隊が必要な社会であるのであれば、そのコストもしっかりと払うべきだ。

本当に戦争を回避したいなら・・・誰とも喧嘩をするな、交通事故を起こすな、というくらい矛盾を含むものの・・・デモクラシー体として、戦争を回避する仕組みをしっかりと作るべきである。これは外側に向けて作るのではなく、内側に作るべきである。本来、憲法がこの役割を担う訳であるのだが。そしてよりクールな議論のできる国家体を作るべきと思う。国家体とは、即ち、行政、立法、司法がバランスよく立ち振る舞い、準公的な役割を持つメディアが多様性をもって報道する姿であろう。その上で、外国の脅威に対してどのように対処すべきか、戦略的に議論すべきであろう。その一つが、もしかすると憲法改正を行っての集団的自衛権の行使になるのかもしれない。

原発再稼働の反対について、司法が国民の住む自由を損なうといった趣旨の判決を書いた。これはその通りである。我が国民は、憲法に保障される自由を侵されてはならない。権力は、この自由を侵さない中での国家運営を求められているにもかかわらず、強引に原発再稼働に突き進む。沖縄の問題もしかりであるが、こうした行政権力の肥大化は、人類が来た道を逆戻りさせる。尤も、何もかもがうまくいくような解決策はないだろう。しかしながら、優先順位が何であるか見極める必要があると思う。メディアに登場する専門家面をした面々は、自分の角度から持論を話すわけであるが、全く持って優先順位の観点が欠如している。国家運営、国民にとって一番大切な筋は何か?出来得るならば、それを我々の手で憲法に書くべきであり、それを国家としてきちんと守ることだろう。多種多様、バラバラの人種が入り交じるアメリカでは、憲法が崇高なまでに遵守されるというのに、単一民族と呼ばれる日本国にそれが何故できないのか、甚だ疑問である。

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刑事裁判

最近思うこに・・誰の心にも悪魔は潜んでいるのだろうなぁという事があります。人の心の闇というのは気がつけばふと湧き出してくるようなものなのではないかと・・。

なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか Book なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか

著者:今枝 仁
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光市母子殺害事件で弁護団を解任されることとなった今枝仁弁護士による、本事件の闘争手記であります。

賛否両論あるかとも思いますが、私としては、非常に深い共感を抱きました。

裁判の結果(即ち、差戻し審の死刑判決)というもの自体は、尊重すべき結果だと思うのです。ただ、今回の事件というのは一つの刑事事件の枠組みを超えた意義というものがあったと思うわけですし、その意味において今枝弁護士の感ずる部分に共鳴する思いであります。

しばし本書を引用させていただきます。

ただ、正直に告白するが、「自分の娘が同じ被害に遭ったらどう思うだろうか」という想像は、幾度となく僕を襲い、苦しめ、深く悩ませた。眠りは妨げられ、不意に嗚咽したり、ときには吐いた。実際、社会的な反感と憎悪を向けられる状況では、僕の家族を同じような目に遭わせてやろうという輩が出てきても不思議ではない。僕にとっては、架空の想定ではなく、現実にいつ起きてもおかしくない、今そこにある危険なのだ。

実際に自分の家族が同じような被害に遭ったら、僕はその犯人を憎しみ、死刑を要求し、犯人が死刑に処されるためのありとあらゆる行動を取り、もはや刑事事件の弁護活動など精神的にできなくなるだろう。当事者となっていないのに、想像するには限界があるのだが。

「被害者や遺族の気持ちを考えたら、そんな凶悪犯の弁護などできないはずだ」という意見があるが、それは違う。おそらくは、そういう人たちの気持ちを推し量り、共感を持とうとする心ある弁護士こそが、弁護士稼業としては何の利益にもならない凶悪事件の弁護を引き受けていくのである。

感受性が乏しく、人間味に欠けたような弁護士は、何の得にもならない凶悪事件を避けるだろう。凶悪事件の弁護人というのは、大体において、想像力に欠けた無神経な人物ではなく、感受性が強く優しい人間が務めているものだろうと僕は信じている。そしてそういう人間こそ、凶悪事件であっても、被害者被告人のためにも誠実な弁護活動をよくなし得るのだ。

(中略)

今もこの原稿を書きながら、涙が止まらない。僕もこの事件に携わったことで苦しい日々を送り、傷ついたし、人の負った傷を感じて自分なりに痛みを味わってきた。願わくば、理解しあうことまでではできないにしても、遺族と弁護人として話し合い、互いの傷をわずかでも分かち合う機会を持ちたかった。被告人に向ける怒りをその擁護者である弁護人の僕に直にぶつけてもらいたかった、と残念に思う。

事件の報道等を見ていて、これで良いのか・・?と思う事がありました。どうして、あんなにも必死に戦っている弁護人を、よってたかって何も知らぬ無知者が公開リンチを加えているのだろうかと。

「法の不治」という言葉があります。

刑法では・・法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない・・としています。

つまるところ、法律を知らなかったから許されるというのでは、誰も法律を守ろうともせず、秩序は守られないだろうということであります。法律を知っていて、それを遵守する人が、馬鹿を見る世の中であってはいけないと・・・。

理屈でわかるものの、あまり好きになれぬロジックでもあります。しかしながら、社会の厳しさというのはそういうものでありましょうし、それが自分たちが守るべき社会であります。

この考えに照らし合わせてみても、弁護人たちが、自分たちの命の灯を賭して、闘っている一方で、何も知らぬ、知ろうとしない、何も守るもののない、そして何も努力もしない、ただの自己正義による快感を満たそうとするだけのマスコミや世論が、数の暴力を利用して弁護人たちに誹謗浴びせる様は、見るに堪えぬものであります。

刑事弁護の意義そのものを一生懸命死守しようとするものを、誰が安易にも傷つける権利があろうかと思うわけです。

こうして旧控訴審までは、事実関係について検察官の主張に対する弁護側の弾劾が十分に機能せず、本来なされるべき証拠の吟味も十分にされず、F君としては、「自分のやったことや考えと違う事実を対象に自分は裁かれている」という不満とやるせなさを抱えながら、そんな状況でもなお、反省を迫られていた。そして、その反省態度が、「不十分である」とされて、特に斟酌すべき事情でもない限り、死刑にすべきというところまで追い詰められてしまったのだ。

F君の立場からすれば、「一体、誰を、何を信じたらいいのか」という混乱が生じても、やむを得ない状況だろう。家族からも見放され、死刑を求刑された被告人。それも犯行時「18歳と30日」という年齢の少年だったにもかかわらず、F君には、1審から通じて、今まで誰1人、情状証人が証言台に立っていない。親も友人もいるはずなのに最高裁まで情状証人がただの1人も立たず死刑判決の危険に晒されている被告人がほかにいようか。

F君の反省がいまだ不十分に映るのは、むしろ、幼いころから現在に至るまで彼のおかれていた状況からすれば当然かもしれず、また、その責めをすべて彼1人に負わせるのはあまりにも過酷だ。未成熟な心を抱え、重大犯罪を起こしてしまった少年が、きちんと反省できるような環境が作られていなかったのだ。

しかし、僕自身、体験してきたことだが、たとえ人より遅れても、人生において「遅すぎる」ということは、死に直面するまでおそらくはない。何ら罪のない2人の生命を奪う重大犯罪を起こし、その贖罪と反省が求められているF君においても、事ここに至って初めて自分自身を吟味し、犯した大きな罪の意味を理解し、正しく反省するための人生をようやく歩み始めたとしても、まだ遅くはないと思う。F君は、まだ、反省を深めて、更生することができる。その機会を不当にも奪ってきたのは、司法に携わる大人たちだ。

痛烈な叫びであると思います。世の中というのは弱者に対していかに冷たいか、という事かもしれません。この世の中が人間が操作できぬ自然であるとするならば、先天的にも後天的にも弱者は存在し、その弱者を虐げるだけの世の中であるならば、人間社会は混沌に向かうだけでありましょう。

日本人には、喧嘩両成敗という武士道の秩序が今も生きているのでしょうか。

江戸時代であっても人を殺すことは罪であったのですが、仇討だけは認められておりました。仇討を合法的に認めることが、殺人を抑止するための秩序であったわけです。

しかし、その秩序は、一度起きてしまった負の連鎖を止めることができません。憎しみは憎しみを生むだけでありました。

これに対峙するところに、現在の刑事裁判が存在します。基本的には、被害者遺族に当事者権限は与えられていないわけですから。

遺族である本村さんが、「司法に負けた。ならば犯人を外に出して欲しい。私がこの手で犯人を殺す」というセンセーショナルな発言をするわけですが、これは到底是認できないのです。

気持ちを推し量る事はできますが、そのような負の連鎖の社会、不安定な社会に少なくとも自分は住みたいとは思わないからです。

今日起きた殺人事件は、社会が全体として解決すべき問題であります。光市事件の少年にしろ、社会が生み出した殺人者であるともいえます。彼がその社会に対して犯した罪が、本村さんの妻・娘の殺害であったわけであります。

であるからこそ、どうしてこの事件が起きたのか、どうしてこの犯人は存在したのか・・ということこそを国民は知る義務があるわけです。

そして、それを明日の平和に結びつけることこそ、本来的な社会の自浄作用でありますし、一人一人の為すべき仕事なのでしょう。

そうして努力することによって、明日の犯罪を未然に防げるわけであり、自分が大切とを思う人を守れるのだと私は思います。そして、それが今の高度な文明利器である刑事裁判なのではないでしょうか。

司法に携わる大人が・・と今枝氏は言いますが、もっと言えば、世の中の大人すべてが負うべき事を負っていないことに、この事件の本質はあると言えるでしょう。自殺者が毎日100人といわれ、その予備軍が100万人にのぼるという心病むこの日本社会にあって、心病んでしまった少年一人をお気楽に死刑にすれば良いという楽観的な風情が理解できません。

少年は、ある種、現社会の被害者であったのですが、事件の一点において加害者になったわけです。加害者が罰せられるのは仕方ないとしても、その被害者である少年を生んだ、その環境や社会(つまるところ、少年への加害者)に問題が及ばないのでは、少年の死刑は犬死にならぬ、社会の生贄に他ならぬでしょう。

大人たちの創った社会の罪を、それが些細なものであれ、少年に押し付けていないと誰が言えましょう。

今枝弁護士は最後にこんな事を述べます。

犯罪を犯した人、あるいは犯したとされている人たちを、「自分とは違う人種」とばかりに、他人事のように突き放して見ることが僕にはできない。

思うに、人の闇は、排斥しあうことによっては消し去れぬものです。というのも、第一義的に、人が闇を作ろうとする様は、人を自分の中から排斥することから始まるからであります。

刑事裁判とは、そういう闇を振り払い、孤独な人間をこの現世に緻密なまでに浮き彫りにする作業なのか・・そんなキツイ作業なのだと改めて知った次第であります。

だからこそ、刑事弁護の意義は峻烈であり崇高でもあるのでしょう。

そんな刑事弁護を使命を持って行っている人々がいます。彼らが存することで、裁判は法の名の下の公平を生みだされ、安心感を与えてくれているのです。

人間の恣意性により裁判が捻じ曲げられうようであれば、それは不審な世の中でありましょうし、歴史の逆行であります。

そんな強い想いを感じさせられました。

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優しさの訓練

「優しさは訓練できる」とは司馬遼太郎の言葉です。私もそのように思っております。

「優しくない」自分というものに数多く遭遇し、そのたびに深く意気消沈するのですが、でもそれは訓練できるんだと思っています。死ぬ一秒前まで・・その訓練と努力は続けたいと思います。

ですが・・それは目に見えるものでもないし、人に見えるものでもありません。たとえ見えたとしても、自分サイドと他人サイドで見え方も違いましょう。ですから、誤解を含めて時に人は疲れてしまう事もあります。

私の得意分野は数字と統計学でしたから、そんな時、そういうものに数字が付けられたらいいのに・・などと走ってしまったりするわけです。

思えば・・人間の歴史というものは数字をつけていく事の歴史でもあったのです。指標化というのでしょうか。

何かの価値?というものを数値化することで、よくわかるわけです。

物を交換したり、物を平等にしたり・・そんな中で四則計算が生まれ、見えなかった概念、つまり平等だとか均等だとかが生まれたわけです。

人が商売をするようになり・・物の価値というのが需要と供給で決まるという事を発見し、市場が生まれ、貨幣の価値、物の価値が生まれたわけです。

最近では、自分の持っている様々な価値をも数値化しています。その方が分かり易いからです。

私はそんな合理的なものが大好きであるのですが、やはり優しさまでもを数値化したいとは思わないのです。見えなくて良いものというのがあるのだと思いますから。

数値化してしまえば、誰もが合理的な判断を取らざるを得なくなるわけです・・・

先日も広島高裁にて不思議な鑑定結果のでた光市母子殺害事件の話について少ししたいと思います。このくらいの事件は当然に、2009年度から始まる裁判員制度の対象になります。

事件は8年前にさかのぼります。

1999年(平成11年)4月14日午後2時すぎ、山口県光市の新日本製鉄の社宅アパートで会社員の本村洋(当時23歳)宅に、排水検査を装った 同じ社宅アパートに住む男性会社員(当時18歳)が婦女暴行目的で本村の妻の弥生(23歳)を襲い、抵抗されたため首を手で絞めて殺害してから凌辱した。 さらに、長女の夕夏ちゃん(11ヶ月)が母親の遺体の近くで泣き叫んだため、夕夏ちゃんを床に叩きつけた上で、もってきたヒモで首を絞めて殺害し、2人の 遺体を押し入れに隠してから財布を盗んでゲームセンターへ行った。加害者の少年はこの日、水道工事会社を無断欠勤して犯行に及んでいる。

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/yamaguti.htm

この事件で、検察は断固死刑求刑するのですが、地裁の判決は無期懲役でした。被害者の夫である本村さんが「司法に絶望した。早く被告を社会に出してほしい。私がこの手で殺す」と話したのは有名であります。

その後の控訴審もやはり無期懲役でした。本村さんの主張はなお強く、事件は世間の脚光浴びる中最高裁へと舞台を移します。

ただ・・この事件を客観的に捉えるならば、死刑になる事件ではないのです。

これは有名な永山基準というものです。

(1)犯罪の性質(2)犯行の動機(3)犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性(4)結果の重大性、特に殺害された被害者の数(5)遺族の被害感情(6)社会的影響(7)犯人の年齢(8)前科(9)犯行後の情状

控訴審ではこの基準への当てはめを行っているわけですが、(2)(4)(7)(8)あたりを満たしていないというようなものでした。

具体的には、犯人の殺人の動機が乏しい事・・永山基準でいう被害者4人に対して2人である事・・犯人が18歳30日である事・・前科がない事であります。

※犯人は少年法の適用を受けるわけですが、18歳以上は刑法で死刑を求刑できることになっています。

この控訴審の事実認定が、最高裁判決で覆りました。判決の破棄、差し戻しであります。

特に、被害者感情、事件の社会的影響、さらに被告の態度が大きく影響したと思われます。

特に大きかったのは獄中にあった被告の友人への手紙の内容でしょうか。

「ま、しゃーないですわ今更。被害者さんのことですやろ?知ってま。ありゃーちょうしづいてるとボクもね、思うとりました。・・・(註: 「中略」の意味?)でも、記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんのなら好きにしてやりたいし」

「知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」

「犬がある日かわいい犬と出会った。・・・(註: 「中略」の意味?)そのまま"やっちゃった"・・・これは罪でしょうか」

「5年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時ば(註: 藤井が「は」を打ち間違えたものと思われる)完全究極体で出たい。じゃないと2度目のぎせい者がでるかも」

(by 光市母子殺害事件@wikipedia)

この手紙は、被害者を中傷するばかりではなく、被告本人が自分が「死刑に」ならない事を強く知っていたという事を証明します。

永山基準に当てはめれば、判例変更がない限りにおいて彼は死刑にはならないのです。

ですがこれでは正義がどこにあるのかわからないという事であり、最高裁第二小法廷は判例変更に踏み切ったのでしょう。

問題は、この事件がなぜ大法廷で行われなかったのだろう?という事であります。

通常、判例変更は大法廷(最高裁判官15人全員で開かれる)で行われるものです。

また、この裁判では、何故最高裁は破棄自判をしなかったか?とマスコミ等が散々に騒ぎました。破棄自判というのは、原審の判決を棄却し、最高裁自らが量刑を決する判決を書く事です。

最高裁という場所は、事件の事実をとやかくやるところではないのです。ですから、地裁・高裁で行われる証拠調べは基本的にありません。今まで審理されてきた事実から、その判断が正しかったのかどうかを見るところであるからです。

事件から8年が経過し、事実認定が難しくなり、被害者家族の心労を慮るならば、もう一度事実認定を洗いなおす高等裁判所での審理は酷というものです。

もし、新たな真実を被告弁護サイドが持ち出せば、再び無期懲役判決が出るやもしれません。

ですが・・最高裁は死刑判決の破棄自判(被告に不利になる自判)は出せないのです。

※量刑を減らすような自判はまれにあります。

何故ならば、他に出されていない真実がどこかにあるかもしれないからです。

最高裁が逆転判決で死刑を出してしまえば、合法的な死を国家の行政府が行うものであるからです。

特に今回のような判例変更に係る事案では、もっと高裁で審理を最後の最後までやってからではないと死刑判決を出せないわけです。

たとえ、高裁⇒最高裁⇒高裁⇒最高裁・・を繰り返す事になろうとも。それだけ、国家が人一人の命を奪うという事には深い意味があるわけです。

一方の弁護サイドは死刑廃止論者たちであります。報道にもあるように、加害者の人権と自分たちの信念は守るが、被害者の人権というものを凌辱しております。

ですが、これが社会のシステムというものです。これに対し、これから個人がどういうアプローチをすべきなのか?

見えないものを如何にして如何なる手段で判断すべきなのか・・問われている気がします。

聞いているだけで腹の立つ言い分でありますし、裁判戦略であります。でも、それを無視するわけにもいかないわけです。


優しさは訓練できます。すなわち、心は訓練できます。ただ、それを怠っていると、心はどんどんと硬直化するものです。

人の痛みを感じることのできない心となります。一人で生きていけるならばそれも良いでしょうが・・

優しさの訓練は、人のための訓練かもしれませんが、第一には自分のための訓練であり努力であるのです。

我々は合理的な判断・・とは言わないまでも、大事な判断をしていくための心を養っていかないと、複雑に入り組んだこれからの社会に対応することは難しいのかなと、そう思うわけです。

そして数値化・・目に見える事に意義を強く与える昨今の世の中です。どうにかそれに惑わされない心を創りたいものだと考えるわけです。

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新自由主義狂想曲

ブログのネタ的には扱いやすいものかとも思う一方、ライブドア事件は大局の一部と見たときには大きな広がりを見せるのではないかとも考える。二階堂ドットコム最新のNHK(梨元放送協会) のライブドア総決算に耳を合わせながら、またいろいろなブログに目を通しながら思った事を書いてみる。

事件の感想を聞かれれば、ただ、へぇ~といった感じで、というのも、これはもう前々からわかっていた事を、どうして今更になって特捜なんぞが動き出したのだ?といった部分の勘ぐりが先に来るからである。同時に何で、熊谷はつかまらんの?代表取締役なの?とかもあるが、二階堂が言うには彼は特捜のスパイだったとの事。

それより、ちと気持ち悪いのが、マスメディアの過熱報道と、小泉自民党の無責任ぶり。ちょっと書かせていただく。

まずマスメディアについてだが、彼らは視聴率を稼ぐために、ホリエモンというキャラクターを最大限に利用し、その事がライブドア株の宣伝を助け、彼の英雄性をアピールする事がライブドアの時価総額を大きく躍進させたという事実に対する責任を持たないのであろうか?メディアの大罪というのはこうした部分にある。調子の良い人間には乗ってやるという考え方だが、犯罪助長をしている事に気づかなければならないはずである。当時は、ホリエモンの考え方を時代の寵児として扱い、斬新であったり、新鮮であったりと表現したものだが、今となっては単なる金の亡者扱いである。また、気持ち悪いなどと一言で切り捨てる。「女は金で買える」、「命の次に金が大事」とか「みんな結局金でしょ」的な発言に対し、真っ向からモラルで対決しようとはしなかったではないか。それが犯罪者となれば、それらを取り上げ、畳み掛けるというのはどういう事であろうか?私は一貫して、このあたりを指摘し続けたが、彼らは自分らの社会的責任を棚上げして、手のひらを返している。CSRなんて言葉があるはずだが、倫理性を一番求められるはずのマスメディアにこうした罪の発想はないのであろうか。

もう一つ、(大嫌いな)みのもんたは随分と自民党をかばったようなのだが、この手の世論誘導もいい加減にして欲しい。自民党執行部の追求よりも特別会計の議論が大切だと言ったらしいが、まったく何様なのであろうか?これは代議士制度という、国民が代議士を選ばなければ政治参画できないという、国家のフレームワークを大きく問いただす根本的問題ではないか。自民党という、政党のお墨付きが与えられた(実際は無所属だったが)人物が、大犯罪(詐欺事件として立件され、その資金の大きさや影響を考えれば)を犯したならば、その推薦した責任をとるのは当然であろう。推薦状を国民に提示して選挙を行ったわけであるから、推薦者はその責任があって当然である。また武部は応援演説で堀江を息子とまで言ったのである。親の責任の取り方というのがあるのではないだろうか?選挙というものが、劇場型の人気投票に化してしまうから、またそのように仕向けたからこそ、このような事がおきるわけで、適切な責任の取り方がここでは必要なはずである。

さて、次のターゲットは村上ファンドと木村剛だそうだ。もう先が早いかな、この噂はだいぶ広まっている。この二人の悪い話は、去年から堀江同様、山のようにインターネット上に転がっていた。まぁいつでも動こうと思えば動けるはずであり、あとは誰かが決断を下すだけであろうか。村上が捕まると、今度はオリックスの宮内が危ない。また木村が捕まると、アメリカに住民票を巧みに移して税金を納めずにいた、といわれている蜜月の仲の竹中も危ないだろう。二階堂はここのところまでは踏み込まないよと言っているのだが、実際のところどうであろうか。こういう権力の世界は先が読めない。右翼だとか暴力団とか(政治家にだってそうだろうが)にも金を握らせていたはずの堀江も、こうして捕まるわけだから。

さて、この事件によって市場が本当に健全化するのか?本当にアメリカの言う新自由主義の素晴らしさに我々が気づくことができるのだろうか?答えはノーだ。フジテレビがライブドア支援に乗り出すというのだが、これは興味深い話である。一つの狙いは5日連続のライブドア株ストップ安の流れを止める事であろう。堀江に次ぐ筆頭株主であるフジテレビの含み損は、すでに500億円に近い。東証の上場廃止に対する牽制球という考え方もできよう。ライブドアの財務状況もわからない状態で、どうして手助けしようなどと言うのだろうか?これを市場操作とは言わないのか?情報に疎い、個人投資家の心をカモにしているのである。

また、マネックス証券についての問題もある。これは多くのブログで既に書かれている事だが、一般マスメディアではち~~~っとも触れない。興味があればジャパンハンドラーズ の記事でも読んでみていただきたいのだが、これがインサイダーでなくして何がインサイダーであろうか?マネーゲームというのは、とにかくインサイダーを持っているものが勝つのである。そしてこのインサイダーを完全に取り締まるということは、決してできない。法さえすり抜けてしまえば、インサイダーなんてものをきちんと監視はできないのである。

私は一貫してきて、新自由主義の非を訴え続けている。アメリカ主導の市場主義、即ちIMFや世界銀行の途上国への介入が、どれだけ一握りの金融長者と大勢の金融奴隷を生み出していることか。そして、この21世紀の初頭に、社会主義という暴力性を伴うイデオロギーを世界の民が選ぼうとしている現実 をどう直視するのか。堀江を、同世代や負け組みの代表として応援していたのに残念だ、なんてインタビューに答える人がいるが、彼が新自由主義から送り込まれたスパイ(例えて言うならば)である事に気づかないようでは、この事件の意味は薄れてしまうと私は思う。17%にもなる彼個人のライブドア株だけで、いったいどれだけのお金になるのか計算してみるがいい。そしてライブドアとは会社自体の中身(独立での財務)を何も持たない粉飾会社である。虚構の城の壁塗りをしているのが自分達であると、気づく必要があるのだ。ライブドアの株を買っていないから関係ないよ!という話ではないことを、気づいていただきたいのである。

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